ブレット・デービス『日本哲学 世界哲学への貢献』 [書評]

~「日本哲学」への期待と危惧~
今年は読書で二人の著者と初めて出会え、収穫を得た。
一人は『日本の哲学 世界哲学への貢献』(筑摩選書)を著したブレッド・デービスさん。
もう一人は、『論理的思考とは何か』『共感の論理』(ともに岩波新書)を著した渡邊雅子さん。
哲学と教育学という異なる分野だが、ともに日本列島文化の今日的な位置と果たすべき役割を訴えている。こういう書が並んで出てくること自体、「近代」がいよいよどん詰まりを迎えていること、そして列島文化が果たす役割の重要性を浮き彫りしている。
◎「西洋独占主義的な哲学観」
今回は、前者デービス氏の著書について少し触れたい。
「哲学」といえば、日本では主に「西洋哲学」を指す。これまで多くの「哲学者」たちはそうした認識を変えず、西洋哲学を学び、それを基礎にして論議してきた。彼らは、古代ギリシャとユダヤ・キリスト教の融合(本書の表現では、「ギリシア哲学、ローマ法、キリスト教の三つの結合」)によって生まれた西欧近代的世界観を疑いもなく世界基準、普遍性として受け容れてきた。
しかし近代が限界を迎えている今日、「近代」的原理・思考自体を相対化しなければならない。けれども、近代を推進してきた西欧的思考は自らの限界をとらえきれない。追随する日本の「哲学者」も同じだ。
だからこそ、その役割の一端を担い、日本列島から発信しなければならない、と私は考えてきた。

ところが、西欧の内部から「西洋哲学」に叛旗を翻し、新しい「世界哲学」へ向けて「日本哲学」の貢献を促す書が現れた。それが本書である。これまでも西洋内部からそれに近い作業が散見されたけれど、不十分だし、外部に視線が向けられてはいなかった。
しかし、アメリカ出身の哲学者デービスさんは「西洋哲学」に対してラディカルな批判を加えている。じつに的を射る批判を展開し、「西洋中心主義的」、さらに厳しく「西洋独占主義的な哲学観」とまで言い切っている。
私のような在野で合間を縫ってものを考えている者にとって、「哲学」学界は縁遠い存在だし、動向を追うことはできないし、追うつもりもないが、欧米の哲学者の中から、このようにまっとうな西洋哲学批判を加える人物が現れたことに驚かされる。本書は学界誌に発表されたものがベースになっているようだが、門外の私のような者にも開かれた内容になっている。
たとえば、近代の哲学者カントをこう批判している。
じつは、西洋哲学以外に哲学はない、という見解は、たった二百数十年前につくられたものである。しかも、それは合理的な根拠というよりは、自民族中心主義および人種差別主義的イデオロギーに基づいたものである。そして、故郷のケーニヒスベルクからほとんど出たことのないカントによると、「ヨーロッパの白人」のみが哲学をする能力を有しているとされる。
(ブレット・デービス『日本哲学 世界哲学への貢献』)
カントおよびその周辺の哲学観、哲学史観を、西洋独占主義的なそれとみなしている。当然ヘーゲルについても、「真の哲学」は古代ギリシャにのみ始まるとする「西洋独占主義的な哲学観」として同列に並べている。
そして幸か不幸か、日本列島には百五十年程前、それが普遍的な「哲学」として受け容れられた。
時代を下り、批判は20世紀ホロコーストの生き残りであるレヴィナスにも及ぶ。「他者に対する倫理的尊重の重要性を力説した哲学者」である彼ですら、次のように語っている。「私はしばしば人間性は聖書とギリシア人から構成されていると言っています。……。それ以外のすべては――すべてのエキゾティックなものは――踊りなのです」。つまり「聖書とギリシア人」以外は添えもの扱いにされている。
こういう世界観、哲学観は、今日の世界情勢、諸々の現場に反映されてきた。
◎日本哲学とその役割

前述したように、日本では「哲学」といえば「西洋哲学」を指した。言い換えれば、日本にはこれまで「哲学」がないものとされてきた。
明治期に中江兆民が「我日本、古より今に至る迄哲学無し」(『一年有半』、1901年)と語ったことに象徴されるように、列島に「哲学」は「存在しない」ものとみなされてきた。
しかし、著者デービスさんは、最澄、空海、道元、また伊藤仁斎ら、近代以前の仏僧、儒学者らから西田幾多郎に至るまで「日本の哲学」とし、そこに「西洋哲学」とは異なる世界観を見出し、新たな「世界哲学」に貢献できる可能性に期待する。
たとえば、次のように、希望を述べている。
……、二十一世紀の日本人が十八世紀のドイツ音楽をみごとに演奏し、そのヨーロッパのクラシック音楽を創造的に発展させることができるのと同様に、世界中の人々が抽象的な「理」よりも具体的な「事・物」を重んじる日本文化・思想・哲学的伝統から学び、引き継ぎ、さらには発展させることがありうるのではないだろうか。
(同前)
「日本哲学」に大きな可能性を見出そうとしている。
そもそも「日本哲学」とは何か。
著者は次のような定義を提案する。
「日本哲学」とは、日本の言語、文化、伝統といった源泉に大きく依拠しているような、普遍性へのアプローチの集合であるというのが、もっともよい定義ではないだろうか。
(同前)
ただ、私たちは「日本の伝統に含まれている精神的・言語的・文化的・宗教的・文学的・芸術的源泉」を十分引きだしえていない。それが実情だ。
◎「多くの『日本人論』が犯す誤り」
さらに「日本哲学」へ傾注し没頭すると、陥穽が待ち構えている。
氏は注意を促している。「哲学者が意図的に日本的な哲学を生み出そうとするなら、日本人論イデオロギーを捏ねあげる可能性が高くなるだろう」と。
日本哲学を日本語や日本の文化や伝統に依拠する哲学として定義する場合にはいくつかの陥穽を避けねばならない。まずは、私たちは常に、多くの「日本人論」が犯す誤りに用心しなければならないからだ。それは、「大和魂」のような日本国や日本民族の独占的特性、すなわち不変的な本質があると主張し、日本文化を本質化しようと試みる。これは、日本の伝統の歴史性と総合的な性質を無視することである。
(同前)
「日本人」を単一民族とし、そこにアイデンティティを求めて扉を閉じてしまうことは、思考を躓かせる。日本列島の宗教やこころもちを「神道」や「大和魂」に絞ることも同じだ。私は書評「『縄文 革命とナショナリズム』を読んで」でも、そう記した。列島文化は習合であり、混交であり、併存としてある。
単一性、純血、純潔(イノセント)へ絞りこむならば、「西洋独占主義」と同じ位置に立って、互いに叩きあう不毛に陥る。
日本で代表的な哲学者西田幾多郎についても触れている。
日本哲学はしばしば西洋中心主義に対抗する、最初の「非西洋的な普遍主義」を提供したと紹介されるものの、著者たちはその独自性を確立しようと奮闘しつつも、その努力は、本質主義、日本の帝国主義、そして文化的ナショナリズムといった問いにはまってしまった。西田幾多郎の「世界新秩序の原理」(一九四三年)がその典型例である。
(同前)
その通りだ。10年ほど前、私も旧サイトの連載「和風原論」で西田幾多郎の躓きを指摘した。
◎「世界哲学」への貢献
私の考えでは、真に文化を跨いで考える哲学者は、単に差異をあらわにすることのみに関心があるわけではない。……、私たちの差異から何を学びうるのかということにある。
(同前)
同感。デービスさんが示したこれらの前提の上に、私の新ジャパノロジーも展開される。
たぶん、彼が「日本哲学」に見出そうとしているものと、私が日本列島文化に見出そうとするものは、やや異なるようにみえる。
それでよいのだ。その論点を議論し、すりあわせる作業の中から、「世界哲学」への貢献の道も開けてくるはずだ。
このとき、著者のいう「世界哲学」は、「独占主義的な哲学」ではない。「多様な文化や伝統や言語の基盤に立つ」対話の場としてある。


