創業560年の老舗が幕を下ろす 本家尾張屋の「営業終了」

「営業終了」2日後の本家尾張屋のたたずまい


◎小さな貼り紙に呆然と立ち尽くす

 1月半ば、京都の地下鉄丸太町駅を出て、烏丸御池方面へぶらりと歩いていた。
 烏丸通に面した京都新聞社ビルには事務所移転の張り紙。訪れるたびに、京の街は変わっていく。
 烏丸通を1本東に入り車屋町通を下ると、お香の松栄堂さんから流れてくる独特の匂いが懐かしい。かつて烏丸御池近くのビルで働いていた当時、毎日感じていたからだ。

 その先には、おなじみの老舗「本家尾張屋」がある。今日は休みなのか、暖簾が出ていない。
 門に小さな貼り紙があることに気づき、近寄って、びっくり。「営業終了」のお知らせだ。暖簾を下ろしたのは、わずか2日前のこと。しばし呆然と立ち尽くした。

近年できた右手の菓子処も
併せて休業

 あとで調べると、すでに昨秋には「長期休業」の予告が出され、京都市民には既知の情報。うかつだった。東京の住人の耳には入ってこなかった。

◎第15代にお話を伺う

 本家尾張屋さんには、いろいろとお世話になった。
 2000年の初夏、私は京の街で仮住まいを始めた。シニア向けサイトSlownetの起ちあげとコンテンツ編集に携わるためだ。
 オフィスが烏丸御池周辺にあったので、すぐ近くの尾張屋さんにはときにランチで暖簾をくぐり、ときには“上京”する知りあいをもてなす場としても利用させていただいた(当時は、近年のように門前に行列ができるという光景はなかった、と記憶する)。

本家尾張屋 第15代
稲岡傳左衛門さん

 さらにSlownetでは、「スローライフ・インタビュー」のコーナーに、先代の第15代稲岡傳左衛門さんにご登場いただいた(2009年新春、取材は前年12月)。

 コーナーのリードには次のように書いた。

 長年蕎麦司、菓子司として京の町衆、そして京を訪ねる粋人に愛されてきた。その伝統を受け継ぐのが第15代当主、稲岡傳左衛門さん。老舗蕎麦屋を守りつなぐ心意気、そしてスローフードとしてのお蕎麦について、大いに語っていただこう。


 先代は、忙しいところ、時間を割いて丁寧に応対してくださった。
 話は、13世紀日本の蕎麦切りの歴史から始まり、店の創業、老舗を守るこころ構え、名物「宝来そば」の由来、そして京文化を育む名水の話にまで広く及んだ。

◎本家尾張屋の歴史

 本家尾張屋の創業は、織田信長、豊臣秀吉らが天下統一を狙い覇を争った時代よりさらに1世紀も前。応仁の乱が勃発する直前の寛正6(1465)年。尾張名古屋から花の都京都に出てきて、当初は菓子司としてスタート。
 江戸期に入ると、お寺さんから菓子職人のところへ製麺の依頼があり、それがきっかけで、蕎麦屋に転業。
 このときから、当主が「傳左衛門」(でんざえもん)を名乗るようになった。それが初代傳左衛門で、元禄15(1702)年のこと。だからその前の6代ほどは、傳左衛門を名乗らない時代があったことになる。

 現在の地(車屋町二条下ル)に移ったのは明治のはじめ。
 今の建物は明治18(1885)年に棟上げ。お店の玄関と、入って右の茶席は当時のまま。以降、2階建てにしたり、建て増してきた。

 暖簾に「御用蕎麦司」(ごようそばつかさ)とあるのは、江戸時代後半に御所に出入りを許された蕎麦屋ということ。明治期に入ると、「宮内庁御用達」と呼び方が変わった。

私も、今上天皇(注 現上皇)が皇太子殿下の時代、よく御所に来られたときには、宮内庁から注文をいただきました。出前を、というお話ですが、蕎麦は出前をしたら美味しくありませんから、釜を御所に持参して、大宮御所の台所で蕎麦を湯がいて作り、お出ししました。
 (スローネット「スローライフインタビュー」)


かつて綾小路室町東入ルにあった江戸時代の尾張屋の店構え。
江戸時代の絵『都の魁』に描かれている


◎「古きを知りて、新しきを創る」

 老舗を続ける道は平坦ではない。戦時中、祖父が早く亡くなってしまったので、先々代(第14代)は中学1年のときに稲岡傳左衛門を襲名。当時は戦時体制ゆえ、そばは嗜好品とみなされ、休業を余儀なくされた。

 第15代は、地元の同志社大学を出たあと、東京の木村屋総本店(あんぱんの老舗)で2年間、修業。製造・工場管理から販売まで広く携わり、学んだ。

 数百年の歴史を持つ店を継ぐというのは、その長い歴史のうちの30年、40年を引き受けるということですね。ですから、自分の立場としてみれば「引継役」です。先祖があって、今の商売をやらせていただいている。そしてお客様に喜ばれてきた。それをきちんと引き継ぐということですね。
  (同前)


 ただし、同じことを受け継ぐだけではいけない。

私がモットーとする言葉は「古きを知りて、新しきを創る」です。昔のことを知らずに、ただ新しいものを作ってもダメです。昔の味や製法、材料を吟味しながら、新しいものを創りだしていく。そういう考えです。
  (同前)


 これは、伝統を守る京の人がモットーとする共通の考え方のようだ。

 本家尾張屋さんは、蕎麦と菓子の両方を進め、時代や状況に応じて、その重心をどちらかに多少シフトさせてきた。
 第15代は、蕎麦と菓子の両方大事としつつも、蕎麦をメインにしてきた。
 一方、お菓子も、蕎麦粉を団子にして焼いた「そば餅」、蕎麦の香りが存分に楽しめる「蕎麦板」、軽く焼きあげた「そばぼうる」などを続けてきた。


 そして、先代を継いだ娘さん(第16代)は「古きを知りて、新しきを創る」精神を受け継ぎつつ、菓子に注力。店舗脇の駐車場を菓子の店舗に変えて、挑戦してきた。

 「営業終了」の背景には、ホームページにも掲載されているように、コロナ禍、年輪を刻んだ店舗建物の改修工事費高騰、人手不足など、いくつかの要因が重なったようだ。
 さらに、国のインバウンド政策がもたらした客層の変化も微妙に影響したのではないか、というのは外野席からの勝手な推測である。

 “家”と“事業”を一体化して進めること(家業)を5世紀以上にわたってつないできた厳しさは、小生の想像を絶するところ。
 万策尽くした果ての苦渋の決断。その重さを、私のような門外が推し量ることはできない。静かに受けとめるだけだ。
 京の老舗番付の“横綱”が消えてしまうのはあまりに寂しいが、これまでへの感謝のことばで本文を締めたい。

第12代か13代ごろ(大正時代)につくられた、とされる「口上」。
「やんごとなき御方より召されて、山鳥の尾張の国より都にまいりしは、
室町時代花の御所の時なり」で始まる。



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