ありがとう Arigato  

【雑記帳】

~「ありがとう Arigato」  語源と、意味の膨らみ、そして可能性~

三内丸山遺跡(青森県、縄文期)

 「ありがとう」。おそらく日本語でもっとも使われる言葉だろう。相手へのお礼、感謝の意を持つが、じつは、単にそれにとどまらない膨らみを内包している。
 日本列島特有の文化風土を背景に生まれ、承け継がれてきたこの言葉は、行き詰まった欧米的「近代」を相対化する力を持つ言葉として、もっと注目されてよいはずだ。

◯「ありがとう」の語源

 「ありがとう」の原形は、「ありがたし」である。古語「ありがたし」の連用形「ありがたく」の「く」が「う」に変化(ウ音便)し、「ありがとう」と発音されるようになった。

 「ありがたい」は、「ある」と「かたい」の二つの語から成り立つ。「かたい」(難い)は、「むずかしい」の意味。「ある」に続いて、語頭が濁音となり、「がたい」。つまり、「ありがたい」となった。

  ある + かたい (有る + 難い) → ありがたい(有り難い)

◯意味とその変遷

 「ありがたい(有り難い)」は、「ある」(存在する)のが難しいことであり、「ありそうにない」「めったにない」「珍しい」を意味した。

 辞書には、およそ次のようにある。

 ①ありそうもない
 ②困難だ、難しい
 ③めったにないほど、すぐれている
 ④畏れ多い、またとなく尊い
 ⑤うれしい、もったいない
 ⑥感謝したい

 この言葉(ありがたし)は、すでに『万葉集』にみえる。
 そこでは、原義の①の意味で使われていた。
 それが②、のちには、③、④の意味に転じ、今では⑤、⑥で主に使われるようになっている。

◯日本の思想風土に根差した言葉「ありがとう」

 「ありがたい」の原義、①の「ありそうもない」(有り難い)が、なぜ⑤「うれしい、もったいない」、⑥「感謝したい」の意味に転じたのか。

三内丸山遺跡

 「ある」とは、自然や事物が「存在する」ことを指す。
 そして、この「ある」ということの「受けとめ」が、欧米と日本列島ではまったく異なる。それは、「存在観(存在論)」の違いとも言い換えられる。

 欧米では、そもそも人間は自然の上に位置し、自然を支配する立場にある。自然は、人間が支配するために、神から与えられたものだ。だから、自然が「ある」のは、「有り難い」ことではない。むしろ、人間が自然をどう利用するか、こそ問われる。ゆえに自然・事物に「ありがたい」と感謝の気持ちを抱くことはない。もし、それに近い気持ちを抱くとすれば、それは自然を与えてくれた神に対して、である。

 他方、日本列島では、人間は自然(存在の生成)の一部であり、自然の上に立っているのではない。自然とともにある。
 そして、人間のいのちは、移ろいゆく自然に「負っている」。自然は支配する対象ではなく、ともに生きるもの。もっと言えば、自然に「生かされている」。
 いのちははかない。振り返れば、いのちが「生かされている」のは、じつに希有なこと、①「有り難い」ことでもあり、ゆえに、「ありがたい」心情も湧き起こる。
 自然・事物が「ある」こと、そして私といういのちが「生きてある」ことが、「有り難く」、「ありがたい」。
 今日の私たちはふだん、感謝、お礼の意味でこの言葉を使っているが、じつはその背後に、変転してきたすべての意味を微かに響かせている。

 人間が自然(存在の生成)の「上」に立つとみる欧米と、自然の「中」にともにあるとみる日本列島の違いが、ここに端的に示されている。

◯脱「近代」のキーワード「ありがとう」

 こうした違いから、近代の西欧では「科学」が急速に発達した。人間は距離を置いて自然を対象としてとらえ、実験・解剖・分析を加え、自然を支配しようとしてきた。そして、自然を支配下に治めようとする「近代的主体」を確立した。

 列島も、欧米に範を求め、急遽「近代」という建築物を構築した。できた。
 ただ、外観は構築できても、柱の基礎に該当する「近代的主体」は、欧米と同じようには確立できなかった。当然のことである。文化の基礎となる「存在観」が異なるのだから。

 欧米的近代を礼讃する立場(近代主義)に立てば、日本人は近代的主体を今も確立できていない、と厳しく批判されることになる。
 だが、「近代」が限界を迎えた今日、むしろ、近代的主体を確立できなかった列島人は、「近代」を超えるアドバンテージを手にしている、と言えないだろうか。「ありがとう」という言葉を今日にいたるも、大切にしているのだから。

 ※「ありがとう」については、拙著『「ありがとう」の構造』で詳しく論じている。

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