「あなたの宗教は?」と聞かれたら
【雑記帳】
日本列島人は「無宗教」なのか?
そもそも「宗教」という概念が欧米とは異なる。
列島文化を動かすオペレーティングシステムを探る――。
先日、Yahoo!ニュースの記事に目を止めた。
「日本では違和感ない「無宗教です」の言葉も海外では危険 元大使が経験した“凍りついた”現場」
「AERAdot.」に掲載されたもので、外交官として海外生活の長かった多賀敏行さんの発言をまとめたもの(ライターは永井貴子さん)。
すぐに想い出したのは、新渡戸稲造『武士道』の冒頭だ。
幕末、南部藩士の家に生まれた新渡戸は、若くして渡米。その後、ドイツに留学中のこと。
ベルギーの法学者の家に招かれ、2人で散歩していたとき、日本の学校教育にはいわゆる宗教教育がないことを伝えると、
「宗教なし! では、どうやって道徳教育を授けるのですか」
と厳しく突っこまれた。
新渡戸は即答できず、まごついた、と振り返る。これが『武士道』執筆のきっかけとなった。
このエピソードは1世紀半近く前のことだが、やりとりの背景となる「宗教」をめぐる事情はどうやら変わっていない。
「あなたの宗教は?」と聞かれたら――。
長年外交官を務めた多賀さんは、「自分は無宗教主義です」と告げることには配慮が必要、とアドバイスする。とくに「atheist」(無神論者)と言えば、相手から反論が出ることを覚悟しなさい、と。
彼自身、若い頃、「私はatheistです」と説明したら、周囲の米英人たちの間に妙な雰囲気が漂ったという。
◯「迷信にとらわれた愚かな異教徒」
もちろん日本にも、れっきとしたクリスチャン、仏教者、あるいは神道者と呼べる方がいらっしゃる。それでも、総数からみれば少数であることは免れない。
では、そうではない大概の人々はどう対処すればよいか。
多賀さんは、お彼岸にお墓参りするくらいであれば仏教徒、あるいは初詣するくらいであれば神道家、と答えればよいのでは、とアドバイスする。
これが現実的で、妥当な対応なのかもしれない。
ただ、私たちの日常の習俗を振り返ると、どうもしっくりこない。
大晦日に除夜の鐘を衝いたり耳傾け、正月を迎えれば神社や寺院に初詣。旅に出かければ、神社仏閣で手を合わせ、頭を下げる。お彼岸に墓参り、盆踊りに参加。京の五山送り火はテレビで放映されるほどだ。はたまた、クリスマスにはケーキを食べる(近年ではハロウィーンにまで手を広げる始末)。結婚式、葬式も各様式が併存し、任意で選べる。
私も含め、こうした列島人の実態にもかかわらず、仏教徒、神道家と答えるには、内心憚られるところがある。
仏教、神道、儒教、キリスト教……、さまざまな宗教のスタイル・行事が、この島国の中では習俗化されている。列島の人々のこうした姿は、幕末も変わらなかった。当時来日した外国人たちは、日本人が神社であろうが仏教寺院であろうが、通りすがりに入った寺社のどこでも祈りを捧げる姿を、「偶像崇拝と迷信にとらわれた哀れな異教徒」とみなした。そんな記録がたくさん残されている。今も列島人へのこうした眼差しは消えていないのだろう。
◯日本人は「宗教」的か、「無宗教」的か
そもそも「宗教」について、たとえば欧米と日本ではその捉え方が違う。神・カミの概念もまったく異なる。
欧米では、「宗教」とはキリスト教を指す(近年はイスラム教も増えているが)。一神教である。世界観や道徳などすべてはそこから発出している。そうした宗教観からみれば、日本人の大概は「無宗教」者である。「信仰をもたない」こと(無信仰)を怪しまれるし、反道徳的ではないか、といぶかられる。多賀さんの指摘するとおりだ。
では、じつのところ、日本人は「宗教」的なのか、「無宗教」的なのか。
ひとつの答えを用意したのは、宗教学者の阿満利麿(1939年~)。彼は宗教を「創唱宗教」と「自然宗教」に分ける(『日本人はなぜ無宗教なのか』)。
創唱宗教とは、特定の人物が特定の教義を唱えたもの。自然宗教とは、いつ、だれによって始められたのかわからない、自然発生的な宗教なので、教祖、経典、教団をもたない。
自然宗教という捉え方は、列島人の現実の姿にうまく重なっている。便宜としては、阿満のように「自然宗教」信者と呼ぶこともできるだろう。
しかし、欧米的あるいは一神教的な世界観からみれば、「自然宗教」とはアニミズム、多神教ゆえに一神教より下位に置かれ、野蛮、未開な信仰と烙印を押されがちだ。
◯ アプリケーションソフトとしての宗教
私は阿満さんとは別の捉え方をしてみたい。
日本列島の人びとは、仏教、神道、儒教等のいわゆる「宗教」より前に、あるいはより深いところで、ある「存在観」をもっている。それは一般的に呼ばれる「宗教」とはいいがたい。あえて宗教として表せば、「存在教」とでもいうほかないものだ。
表現を変えてみよう。列島人の大概は、仏教、神道、儒教等の「宗教」をアプリケーションソフトととらえ、取り扱う(もちろん、れっきとした信仰をもつ方には該当しないし、こうした表現はたいへん失礼になるだろうが、ご容赦いただきたい)。
では、それら「宗教」がアプリケーションソフトであるなら、これらを駆動させるOS(オペレーティングシステム)がなければならない。何か。
それが、列島人の心の構造の根底に流れる存在観とでもいうべきものである。この独自のOSの上で、あたかもアプリケーションソフトのように各「宗教」とその文化を都度採用し、習俗化している。それが実態ではないか。
長年続いてきた神仏習合という事態も、OS上での現象としてある。
ちなみに、「神道」こそ古来あった宗教だという考えもある。しかし「神道」が意識されるようになったのは、仏教伝来によってであり、その影響を受け、のちに一面的に「運動化」「教義化」されたが、その教義が列島の存在観(OS)に十分降りている、とはいいがたい。
それゆえ、近代に入り、政府が「神道」を前面に押し出して「国家神道」化させたことは、ずいぶん無理な結果をもたらしてしまった。
◯列島人の心のはたらきの核
このOSは、ふだんなかなか対象化されず、表現の場に登場することもない。OSとは土台であり、そもそも日常意識することのない裏方である。別のOS(の人、たとえば外国人)と接触するときに、違いが露わになる。
では、日本列島のOSとは、いったいどんなものなのか。響きあう表現を探してみよう。
たとえば、空海が「即身成仏」と語り、親鸞が「即得往生」と語り、本居宣長が「もののあはれ」と語り、石川啄木が「人生の負債(おいめ)」と書き、近年では吉本隆明が不十分ながら「存在の倫理」と語りかけた。脈絡なく各分野の言葉を例として採りあげてみたが、それらに列島の存在観の響きを感じとることができる。
そしてなにより、こうした表現を引くまでもなく、私たちが日々、互いに心情を交わしあうシーンに、このOSのはたらきを反照的にうかがうことができる。
根底にあるのは、「あり難いことが、ある」、逆に「あることが、あり難い」との受感である。
万物が生じ、変わり、消えては、また生じる――こうした存在の生成を、特権者としての超越的視点からではなく、自らもその一員として受けとめる。このとき、「あることが、あり難い」と感じ、「あり難いことが、ある」と感じる。当然、反対に消えて「ない」こと(不在)を受けとめ、哀しむ心の動きとともにある。
このような、「ある」と「ない」の受けとめが、列島の心性の核を形成する。
そして、「ありがたい」という受けとめは、人々の心に「負い目」を生まないわけにはゆかない。抑えがたく湧いてくる「負い目」から、倫理や道徳がかたちづくられる。
けれども、この「負い目」は、一神教における「罪」「原罪」と同列に扱うことはけっしてできない。「ある」ということの受けとめ(存在観)が、一神教とは異なるからだ。
遠藤周作『深い河』の主人公大津は、信心深いクリスチャンとして生きている。ただ、大津はどうしても、西欧的なキリスト教に異和を感じてしまう。「ぼくのなかの日本人的な感覚が、ヨーロッパの基督教に違和感を感じさせてしまったのです」と。たとえば「生命のなかに序列がある」とする教えは、列島の存在観(OS)からは受けとめにくい。
ゆえに、大津は西欧的教会の中では歓迎されない。
そもそも創成神話からして、西欧と列島ではまったく異なる。「旧約聖書」と「古事記」「日本書紀」の冒頭を比べれば明らかだ。
また、「存在とは何か」を形而上学的(超自然的)立場から考察してきた西欧哲学と、列島の存在観はまったく異なる。だから、列島に(西欧)哲学的著作が生まれなかったのも当然のことで、それを恥じる必要もない。
それゆえ、2000年に及ぶ西欧哲学を「形而上学」として根底から批判した、20世紀の哲学者ハイデガーの存在観は、列島の存在感と近しい。
むろん、西欧的・近代的なものを排除しようというのではない。私たちはすでにキリスト教的(欧米的)文化をアプリケーションソフトとして評価し、広く受け容れてきたことを否定はできない。
(詳細は拙著『「ありがとう」の構造』)
◯ 「Arigato」という受けとめ
はじめの問いに戻ろう。「あなたの宗教は?」と聞かれたとき、どう答えるか。
多賀さんのアドバイスのように、「仏教徒」「神道家」と軽く答えてやり過ごすのが、心の中にひっかかりを覚えながらも、妥当なのだろう。
ただ、もし時間が許し、うち解けて話せそうな相手であれば、私なら、外国人の誰もが知っている言葉「Arigato」から話を切り出してみたい。
「Arigato=ありがとう」というお礼の言葉の元は、「ありがたい」であり、分けると「ある+難い」。それは「あることがむずかしい」。
そもそも「ある(存在する)こと」がむずかしいのに、(万物、いのちが)存在し、支えあって生きている。これを「ありがたい」と受けとめることに行き着く。それが日本列島における、あえていえば「宗教」的なものの核である、と。
このような「存在」の受けとめが、欧米人のいう「宗教」に該当するもの(OS)であり、「Arigato」こそが列島の倫理や道徳をかたちづくる核のようなものである。と
その上で、海外の、「よい・好ましい」と思われる文化や宗教をアプリケーションソフトとして都合よく採り入れ、習俗化してきたのだ、と。
こう話せば当然、「なんといい加減な!」と反発を食らうこともあるだろう。そんなものはとても「宗教」とは呼べない、と。そうだろう、欧米的概念、あるいは一神教的概念とからみれば、とても「宗教」とは呼べない。
ただ、互いの「宗教」や「信仰」を尊重することにおいて、他国より寛容であるのも、こうしたOSが前提となっているからだ。
なにも、列島のOSを礼賛するのではない。このシステムには、好ましい面と、うんざり辟易する面が混在している。
ただ、欧米的近代(今日、私たちが生きる社会)が行き詰まり、諸課題の打開が模索される今こそ、私たち自身の存在観(基礎となり、いまも働いているOS)に光をあてて発信するのも、けっして無駄なことではないはずだ。
念のため付言すれば、こうした見直しは、党派的な「保守」(じつは近代主義)の立場とは異なる。
そして、このOSは、進展するデジタルテクノロジー世界ともけっして相性が悪いわけではないようにみえる。