小林秀雄「女は俺が成熟する場所だった。書物に傍線をほどこしてはこの世を……」
遺された言葉たち④
~刻まれ、今も消えない言葉~
女は俺が成熟する場所だった。書物に傍線をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。
小林秀雄「Xへの手紙」
◎「戸塚源兵衛」
まだ17歳だった詩人中原中也が、2歳年上で女優志望の長谷川泰子を伴い、京都今出川の借家から上京したのは、 1925(大正14)年のこと。
下宿した先は、早稲田の戸塚源兵衛195。
番地にまで私がこだわるのは、50代で亡くなった友が住んでいた古びたマンションのあたりだったからだ。
友人は文学青年だったので、小林秀雄、中原中也、そして長谷川泰子が形成した三角関係のエピソードにも興味をもっていた。しかし、中也上京後初めての住まいが、自分の住むあたり(現・西早稲田三丁目、旧名「戸塚源兵衛」)だったことは意識していなかったようだ。もし、知っていたら、即座に私に「おい、とよだっ! じつはな」と少し得意気にこちらに伝えただろうから。私たちは、文学や知について対抗し、刺激しあう関係だった。
編集プロダクションに勤め始めた友は、2回目の転居で、知らず知らず、引き寄せられるように、戸塚源兵衛あたりに住まいを構えた。
病いで亡くなったあと、彼の部屋を片づけていたとき書棚に、長谷川泰子が書いた単行本『ゆきてかへらぬ』が遺されていた。要所要所に付箋が挟まれている。ただ、「戸塚源兵衛」の文字のところに付箋はなかった。
◎三角関係の始まり
本題に話を戻す。戸塚源兵衛に住み始めた中也と泰子は、間もなく中野の貸家に居を移す。
そこに初めて訪ねてきた客が小林秀雄だった。小林は東大の一文に入りたてで、23歳。
以降、小林は中也宅をしばしば訪ね、酒を呑みながら文学談義に花を咲かせるようになる。
◎大島行き
中也が郷里に帰り不在の日のこと。
訪ねてきた小林は泰子を誘う、「大島へ旅行してみよう」と。
「大島」とは伊豆大島。ちなみに、時代が下り、私らの時代になると、距離がもっと伸びて、三宅島あたりが誘い先になっていた。
長谷川泰子は悩んだ末、提案を受け容れる。約束の待ち合わせは、10月8日、午後1時、品川駅だった。
ところが、当日、約束の時刻をずいぶん過ぎても、泰子はやってこない。
小林は諦めて、一人で大島に出かけた。いわば、傷心の一人旅である。小林の年譜に「大島に旅行」などと書かれているのは、これを指している。
じつは、泰子は、在宅していた中也への気兼ねから出発できず、1時間ほど遅れて品川駅に着いたが、すでに小林の姿はなかったという(『ゆきてかへらぬ』)。
しかし翌月、小林の入院がきっかけで、2人は生活をともにすることになる。
新居(杉並区天沼)には、中也がよく訪ねるようになり、3人の間で、複雑な関係が続く。
そして2年後、小林は、泰子と同居していた家を飛びだし、彼女との訣れとなった。
「Xへの手紙」が発表されたのは、それから3、4年後の1932年のこと。
その内容に、長谷川泰子だけでなく、第二の女性の存在も反映されているのでは、と指摘したのは、『小林秀雄論』を書いた若き江藤淳だ。
実際どうだったのか、ここではどうでもよいことだ。
とにかく小林にとって、「女は俺が成熟する場所」となった。
◎知の獲得は自然過程にすぎない
「書物に傍線をほどこしてはこの世を理解して行」くこと。それは知を追究する人間が辿る自然過程である。
たしかに知を獲得するには、たえず努力が必要だ。それもまた、評価されるべきことだ。とりわけ少年少女時代は、まだ人生体験の蓄積が少ない。書物に傍線を引いて世界を把握しようとするものだ。それで世界を理解できたつもりになる。
知を蓄積しようとするのは、繰り返せば、人間の観念が辿る自然過程であって、それ自体に価値があるわけではない。「書物に傍線をほどこして」理解しようとしても、知で全世界を覆えるわけではない。現実は、書物の通りには進まない。獲得した知で、世の中の動向を把握できるわけでもない。
それでも無理やり、つかんで「真実」だと思いこむ「知」で世界を覆わんとすると、政治世界ではとんでもない転倒と悲劇を招く。
知よりも現実のほうが広くて、深い。
◎テレビが教えてくれる好事例
知の獲得が、人間力と結びつかないことを教えてくれる事例はたくさんある。
テレビというオールドメディアを、私は今もそれなりに観ているが、テレビなりによいところはまだあるものだ。
たとえば、知の学問所として国内トップ、そして世界トップの大学、大学院を、しかも最高成績で卒業したような人物が、テレビ番組のコメンテーターとして登場する。
ところが、そんな肩書きを持つ人物の発言と所作を見ていると、こころの芯、からだの芯がまともに形成されていないことが、画面を通じてよくわかる。こころはフニャフニャ、からだもフニャフニャで、当然、表情にまで歪みが出てしまう。そんな事例があるものだ。
獲得した知識を披瀝することはできても、社会の諸状況の本質にはまともに迫ることができない。学問所の経歴でいえば、知の自然過程の最高峰に昇った人が、人間力では、学問所歴がほとんどない芸人さんに勝るわけではまったくない。
知の獲得と人間力は、正比例しない。
◎「成熟する場所」としての「女」
知を獲得することで世界を知ったつもりになる「小癪な夢を一挙に破ってくれた」のは、小林の場合、「女」だった。
「女」でなくてもよいのだろうが、青年にとって一番手っ取り早い生活上の出来事といえば、色恋沙汰だ。長谷川泰子との恋愛、生活は、それまでに獲得した知なんて、なんの力にもならないし、役にも立たないことを明らかにした。
とはいうものの、文学史に名を残す小林秀雄や中原中也が、庶民とは違う恋愛劇を演じたわけではない。誰もが体験する恋愛劇、惚た腫れたの愛憎劇を、彼らもくり返したにすぎない。世間のどこにでもある諍いや嫉妬、憐憫、怒りが渦巻く世界を体験したにすぎない。
小林自身、自覚し、そう書いている。
「と言っても何も人よりましな恋愛をしたとは思っていない。何も彼も尋常な事をやって来た。女を殺そうと考えたり、女の方では実際に俺を殺そうと試みたり、愛しているのか憎んでいるのか判然としなくなって来る程お互いの顔を点検し合ったり、惚れたのは一体どっちのせいだか訝り合ったり、相手がうまく嘘をついて呉れないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと却ってがっかりしたり、――要するに俺は説明の煩に堪えない。」と(「Xへの手紙」)。
「書物に傍線をほどこしてはこの世を理解して行こう」という「小癪な夢」が、いとも簡単に破壊される。ここで初めて、知が相対化される。
◎「小癪な夢」が通用しない世界
私の場合、二十歳の頃、このフレーズに出会い、はたと手を打った。
「Xへの手紙」あたりの小林の文には、過剰な自意識と表現の回りくどさに、半ば辟易させられていたが、このフーレズだけは、自分のこころを鋭く衝いてきた。
「女」とそれに伴う実生活によって、私も「小癪な夢」を打ち破られた。「書物に傍線をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢」など、まったく通用しない世界の現出だ。小林のように、それによって「成熟」した、とまで言えるかどうかは別にして。
『罪と罰』の大学生ラスコーリニコフも、学問的「知」なんてまったく所有していないソーニャによって、「小癪な夢」(観念世界)を破られた。
芸術と「実生活」との間でも、同様に言える。
小林は、「実生活にとって芸術とは屁の様なものだ」と書いている。そして、「屁のようなもの」と受けとめることで、初めて芸術とより深く対することができると(「批評家失格」)。
◎観念の自然過程(「小癪な夢」)を絶対化しない
「書物に傍線をほどこしてはこの世を理解して行こうとした」「小癪な夢」――これを壊された体験をもたない人は、信用しがたい。
知を上昇させてつかんだつもりの「知」で世界を覆えると思っているからだ。
表現を変えてみよう。知を獲得する過程は、往きの道である。往って、知の高みを究め、そこから戻ってくるのが知の復(かえ)り道である。この復りの過程を確保し、それを自覚できるかどうかで道が分かれる、のだと思う。
知を上昇させたきり、いわば「往ったきり」で世界を覆えると思いこむのは、たとえばイデオロギー世界である。
問われるのは、「小癪な夢」が解体され、知・観念の自然過程を相対化できるかどうかだ。
たとえば、欧米から引っ張ってくる言葉、概念、商品、ツールをカタカナ書きしていち早く紹介し、自分は先端の知を所有しているのだぞと胸を張るのも、観念の自然過程にすぎない。上昇し獲得する知を絶対化し、奉っているだけだ。
それを「小癪な夢」として相対化できるかどうか、いつの時代も問われている。