橘玲 『テクノ・リバタリアン』 [書評]
[雑記帳]
テクノ・リバタリアンは、ほんとうに「世界を変える唯一の思想」なのだろうか?
「死」は技術的な問題にすぎないのだろうか?
彼らの考える「自由」とは、ほんとうに「グローバル」のスタンダードだろうか?
◯ 「世界を変える唯一の思想」?
巨大プラットホームを築いた人物やイーロン・マスク、生成AIの開拓者たちの人間像と思想を、それなりに知ることができる。そうした意味では貴重な書。
かつて雑誌で一部を読んだとき、著者は、カリフォルニアン・イデオロギーやテクノ・リバタリアニズムとは少し距離を置いているのは、と感じていたが、本書では「世界を変える唯一の思想」と持ちあげている。それだけの力を否応なく感じているのだろう。
本書のサブタイトルは、テクノ・リバタリアンこそ「世界を変える唯一の思想」とある。では、ほんとうにそうなのだろうか。
また、双手を挙げて賞賛される「自由」の概念の検証が必要ではないか。そもそも彼らの「自由」概念とは、じつはローカルなものにすぎないのではないか。
◯テクノ・リバタリアンとは
まずテクノ・リバタリアンとは何か?
リバタリアニズムとは「自由原理主義」であり、「純化された自由主義」である。
「人は自由に生きるのが素晴らしい」。それがリバタリアニズムの原理であるならば、自己の意思・意志を妨げる一切のものは、排除しなければならない。国家や組織の規制や介入は排除しなければならない。アナキズムとも通じあうものがある。
そして、ここに「テクノ」がつく。「高い論理・数学的知能」をもつものが、テクノ・リバタリアンである。今日、指数関数的に高度化しているデジタル・テクノロジーと結びつくのが、テクノ・リバタリアニズムということになる。
著者は、「革命のような『大きな物語』の幻想がすべて潰えたいま、テクノ・リバタリアニズムが『世界を変える唯一の思想』になった」と断じる。
◯「自由」の概念こそ問われている
私が問いたいのは、本書での中心課題である「自由」について、である。もっとも重要な概念は「自由」である。
著者は書いている、「私たちが生きている近代社会が、『自由』に至高の価値を与えている」。「近代というパラダイムが変わらないかぎり、『自由』と『自分らしさ』の価値を否定することはできない」。
一見、非のうちどころのない、近代社会の「自由」論である。けれども、この近代社会の「自由」こそ、いま問われているのだと思う。そのことは、あとで触れよう。
著者の橘さんは、こう書いている。
日本では残念なことに、いまだに「思想」というと孔子や仏陀やプラトン、カントやマルクス、あるいは1980年代に流行したポストモダンのフランス思想のことだと思われているが、科学とテクノロジーの水準が指数関数的(エクスポネンシャル)に高度化したことで、これらはすべて過去の遺物になった(進化論を無視して人間や社会を語ることになんの意味があるのか)。
『テクノ・リバタリアン』
孔子、仏陀、プラトン、カント、マルクス……、そして20世紀後半のポストモダンまで、「過去の遺物」としてお払い箱に投げこまれている。
著者は「進化」に疑いをもたず、ずいぶんと楽観的なようにみえる。
一読するともっともらしく思えるが、ここには落し穴が潜んでいる。
じつは、テクノ・リバタリアン、そして橘さんがいう「自由」の概念は、たとえば、プラトン、カント、マルクスらと無縁ではない。むしろ、リバタリアニズムは、これらの延長上に位置している。「進歩」「進化」で過去が容易に切りすてられるものではない。
もっといえば、ユダヤ・キリスト教、古代ギリシャ(プラトン)から始まる「自由」の追求を極めた現在地が、リバタリアニズムである。ルーツは、プラトンまで辿れる。「過去の遺物」どころではない。だからこそ、「過去」も、そう簡単に切り捨てられない。
◯「究極の自由」の追求
いかなる束縛も受けないこと、それが自由原理主義、リバタリアニズムである。これはなにも目新しい思考ではない。まさにプラトン以来、西欧的思考は、こうした志向性にとらわれてきた。だから物質やら肉体やらは、自由を阻むものとして排除される。
テクノ・リバタリアンの直接のルーツは、英米の功利主義・プラグマティズムだろうが、遡れば、プラトン、デカルト、カント、アレント……にまで連なっている。その一貫性には驚くばかりだ。
プラトンが述べたことばを、ひとつだけでも引用すればよい。
何かを純粋に見ようとするなら、肉体から離れて、魂そのものによって、ものそのものを見なければならぬということは、われわれにはたしかな明白な事実なのだ。
『パイドン』
ここでは、精神(魂)と身体が対置され、「身体」や「場」を捨象することで、「真理」が発見でき、「自由」を獲得できる、とされる。身体は、「真理」や「自由」にとって邪魔ものなのだ。
プラトンがすがった「魂」を、精神、悟性、知性というように、どんどん局所化(矮小化)していけば、今日テクノ・リバタリアンが重視する「脳」に行き着く。
まさに、身体は邪魔ものにすぎない。
「指数関数的(エクスポネンシャル)」であろうがなかろうが、リバタリアニズムとは、プラトンらに発する欧米的土壌の上に咲いた主義である。
◯「死」は技術的な問題にすぎない?
となると、テクノ・リバタリアンにとって、自由の最大の障害は何か。
「死」である。なぜなら、「死」は、精神、魂、人格からみて、動物性の現れの最たるものだから。
「死」とは「理不尽な運命」であり、リバタリアニズムにとっては許しがたい。
案の定、リバタリアニズムは、「不死」を手にしたい。死は「技術的な問題」にすぎないはずだ、テクノロジーによって解決できる、といった論が、彼らから生まれてくる。人類はいずれ、「意識をもつAIと融合」して「永遠の生命」へと至る、と(私見では、そんなところに豊潤な生はとても見出しがたいのだが)。
◯テクノ・リバタリアンの盲点 再び 「自由」の概念について
彼ら(といっても、著者橘さんが概要をまとめた「彼ら」と限定すべきだが)があえて見ようとしないことがある。
自由を阻害するものとして、「死」を意識しているけれど、テクノ・リバタリアンは、自らの「誕生」について、思いを寄せていない(ようにみえる)。主体が「自由」の拡充、「自由」の全面開花を欲望しているけれど、そもそも、その主体がどのようにして生まれたのか、それが問われていない(ようにみえる)。
自らの誕生に、人は「主体的」に関わったのではない。まったく関与していない。自らのいのちは贈与されたものだ。そして、育ったのも、そのほとんどは周囲の力に拠っている。
さらに現在にあっても、「生きてある」のは、自然(大気、大地、雨、水、動物・植物ら)のおかげである。この「おかげ」(いいかえれば、「負い」の意識)が、彼らには欠落している。これは、テクノ・リバタリアンというより、欧米的思考のひとつの特徴であり、辿れば、ニーチェ経由で、さきほど挙げたプラトンにまで遡り、辿り着く。
結局、根本的問題は、「自由」という概念にあるように思えてくる(ここでは、freedom、libertyの問題は措く)。
「自由」が、社会的・政治的権力からの束縛を排除しようとすることにあるのを、理解しないわけではない。党こそ正義を体現しているとする一党独裁主義や、家族・血縁で国家を統治しようとする独裁制には、断乎反対する。そういう不当な権力からの「自由」は確保されるべきである。今日でも、じつに切実な課題であり続ける。
しかし、「制約を受けずに……できる」という「自由」の概念は、つねに、「いま・ここ」の先へと人々を突き動かす。「……できる」ということの拡張を、たえず求める。その志向性のもとでは、「いま・ここ」の充溢を味わうということが排除される。不能となる。
◯「総督府功利主義」と「大審問官」
本書では、世界の80億人にUBI(ユニヴァーサル・ベーシックインカム)を支給する案など、IT成功者たちのユニークな発想があれこれ紹介され、現在地がわかる(参考にもなる)。
また、耳慣れないことばがしばしば登場する。「総督府功利主義」もそのひとつだ。総督府功利主義という名称のリバタリアニズム。
どういうものか。支配者が大衆を羊(動物)のように管理すれば、羊(人間)の欲望はその都度満たされる。「目の前の欲望」がつねに満たされるなら、羊(人間)は我慢する必要がない。そうなれば、大衆にとって「人格」なんて必要がない、と考えるのが総督府功利主義である。なぜなら、人格とは過去から未来に向かって「わたし」の同一性(一貫性)が保たれることだが、つねに満足が与えられるなら、「将来の自分に配慮する必要はなくなる」。人間から「人格」が消える。
人間は欲望する主体であるが、欲望を充たす対象がつねに得られれば、我慢する必要もない、喜びを先送りして、我慢して働くこと(労働)も必要がなくなる。ただ、動物が餌に食いつくように生きればよい。
どこかで似たような物語が……。そう、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に出てくる大審問官物語を想起させる、この総督府功利主義も、西欧的統治の代表的なパターンである。
「人間」と「動物」が対比される。「欲望」と「対象」が対置される。マルクスやケインズが、「必然の王国」(絶対的ニーズの世界)と、「自由の王国」(相対的ニーズの世界)を設定した構図と似ている。
だが、マルクス、ケインズは、餌(自然的欲望、「必然の王国」)が満たされた先に、「自由の王国」が到来すると夢みた。ところが総督府功利主義者は、必然の王国のニーズが充たされれば、人間は動物のように、苦労せず、我慢せずに生きられる、とする。人格が求められる一貫性など考慮する必要はない。動物のように生きればよい、と。
◯人間と動物 コジェーヴの貧困
むむっ、これも、どこかに似たようは発想があったなあ、と巡らしていて、アレクサンドル・コジェーヴ(『ヘーゲル読解入門』)に思い当たった。
20世紀フランス「現代」思想に影響を与えたコジェーヴは、対立の歴史が終焉を迎えれば、人間は「動物」として生きるほかない、とした。歴史の終焉によって、大きな物語(イデオロギー)や観念が消え失せるのだから、人間は動物(羊)に成り下がる、という論である。
すでに歴史は終焉したのだから、人格や精神は失せている。必要なものをたえず与えておけば、人間は動物として生きることになるとする。そうとうに詰めの甘い論である。
じつに貧弱な「人間と動物」の対比である。動物に対して失礼だし、人間に対しても失礼である。
「総督府功利主義」とは、もともと典型的な西欧的思考のコジェーヴの論をさらに水で薄めたような代物に思えてくる。逆にいえば、これまでの欧米的風土をしっかり踏まえて開花した論でもある。
こういう発想のもとで、「自由」が考えられ、「欲望」が考えられ、「人間」や「動物」が考えられている。
ここで詳しく論じる余裕はないが、これらは、日本列島の存在観、自然観とは根本的に相容れない。どちらがよいか、とはここでは言うまい。それぞれが歴史的・地勢的必然を辿ってきたのだから。
◯得意のエミュレータをかまして、日本列島はしのいできた
自然観、存在観は、「自由」をどうとらえるか、に表れる。だから、欧米的な自由の追求(「制約なく……できること」の拡張)は、日本列島文化のOSとは相性がよくない。
たしかに日本列島人は、明治期に入り、欧米文化・技術を積極的に受け容れ、それなりの「近代化」を達成した。たいしたものだ。
しかし、列島の文化的OSは、古来変わっていない。
では、そんなOSの上で、なぜ、近代化を達成できたのだろうか。私のみるところ、OSとアプリケーションソフトの間に、見よう見まねでつくったエミュレータ(擬きソフト)をかましてきたからだ。このあたりは、列島人の得意とするところ(これについては、別途、明らかにしたい)。
◯日本の風土への怒り
指数関数的に高度化しているデジタル・テクノロジーと結びつくテクノ・リバタリアニズムが世界に広がりつつある中で、著者は、日本列島の風土に対する不満や怒りを「あとがき」でぶちまけている。いったい日本は何をしているのか、と。
年功序列・終身雇用といった旧い制度がいまだに残り、日本社会の長い停滞を生んだ、と著者はみている。
よくある言説だが、そうだろうか。「失われた20年、30年」としばしば指摘される。しかしじつは、それ以前の「失われていない〇〇年」を生みだしたのは、ほかでもない、年功序列・終身雇用制ががっちり守られていた社会である。むしろ、雇用の流動化が叫ばれ、実践されるころに合わせて、「失われた〇〇年」が現出した。
そもそも「失われなかった」時代にしても、「失われた時代」にしても、私から見ると、どっこいどっこいだ。たしかに個別には様々な固有の事象があるが、すでに年功序列・終身雇用制が崩壊しつつある「失われた〇〇年」も、逆に年功序列・終身雇用制が維持されていた「失われなかった〇〇年」も、どちらかをことさら評価してもちあげる心情を、私は持ちあわせていない。
◯「遅れているからダメだ」という昔から変わらぬ発想
断っておけば、私は「年功序列・終身雇用」を擁護したいわけではない。なにより私自身、10回以上の転職を繰りかえしてきた。ひとつの企業にどっぷり浸かるなど、おぞましく感じる。
少し気障ったらしく表現すれば、企業に属していても、「半分フリー」の気持ちをつねにもっていたので、「ハンフリー・ボガード」を密かに自称していた。
しかし、一企業を生涯の職場としようとする人々に対して、「社畜」などと侮蔑する気は毛頭ない。
人間にはいろいろなタイプ、資質がある。企業にもいろいろな業種、風土がある。今も、終身雇用的に生きる人や、それを求める企業があっても、それもいいではないか、と思う。不要とされれば、組織はなくなるだけだ。
日本が「海の向こう」からみて「遅れている」、ゆえに日本はダメだという発想は、古来、列島人のなかにあった。なにもことさら新しい自己侮蔑ではない。
しかし、今日「グローバル・スタンダード」を標榜する思考も、じつは古代ギリシャの一部(プラトン)あたりのローカルから発生したものでしかなく、かつ、双手を挙げて素晴らしいなどとはとてもいえない。
欧米的思考と産物に、これまでも、そしてこれからも謙虚に学び、吸収すべきことは多々あろうが、何も不必要に、自らを卑下する必要もまったくない。
◯「自由」を恐れる「旧石器時代人」?
著者からみると、テクノ・リバタリアンの理想を阻むのは、「国家や中央集権的な組織のような『敵』ではなく、わたしたちの進化的な制約であり、認知的な脆弱性だ」ということになる。
つまり、「旧石器時代」の環境に最適化するようにプログラムされた「わたしたちの脳」が、「環境の変化に合わせて自動的に更新されるようになっていない」ことが問題だという。
日本人は「自由」を恐れていることに気づいた、と著者はいう。日本社会は、「自由」を恐れ、「合理性」を憎んでいる、として批判される。ずいぶんと厳しいものいいだ。
しかし、恐れるもなにも、日本列島の人びとは、欧米的な「自由」観をそもそも持ちあわせていないのだ。「いま・ここ」の充溢を先送りして、「制約なく……できる」という自由の拡大を、列島人は貪欲には志向してこなかった。
むしろ、「いま・ここ」の充溢をこそ、列島人は求めてきた(もちろんこれは負性でもはあるが)。それは、世界の始まりから終末までを直線的に、しかも拡張的な進歩史観でみようとする欧米と、時間を円運動の繰りかえしと受けとめる列島との違いである。
だから、「すべての人類は意識をもつAIと融合し、永遠の生命をもつ『超知能』となって全宇宙へと広がっていくのだ」と遠望するテクノ・リバタリアンからみれば、わたし(たち)の思考は、たしかに「旧石器時代」と変わらないのかもしれない。でも、それは恥ずべきでもなんでもない。ローカルとローカルのぶつかり合いにすぎない。
もちろん、そんなぶつかり合いを戦力・武力で決着つけようという愚かな発想を、今日の列島人のほとんどは持っていない。幸いだし、貴重なことだ。
◯デジタル小作人の小作人として
テクノロジー、科学技術は否定されるべきではない。それは人間の知的な自然過程である。醒めたいい方をすれば、自然過程にすぎない。だから、それを抑圧したり、否定はできない。
ただし、それを用いるのあたっては、ほかのいかなる科学技術とも同じく、制御が求められる。
これまでにない厄介なテクノロジーの登場である。だが、デジタル・テクノロジーが「自由」を飛躍的に拡大してくれるとか、双手を挙げるほど、楽観的にはとてもなれない。むしろ、人間の「弱さ」(脆弱性)も、「指数関数的(エクスポネンシャル)」に肥大化して、とんてもない事態をもたらすのではないか、と危惧する。
「自由の最大化」は欲望の最大化と言い換えられるが、そこでは存在論的な「負い」の視点がまったく欠落している。だからこそ、怖い。
日本は、GAFAらが支配する領土の「デジタル小作人」となり下がっている、といわれる。とすれば、その元で、SNSを使う私のような一個人は、デジタル小作人のさらに小作人ということになる。無力の極みである。
けれど、「究極の自由」の飽くなき追求という「善意」(転倒)には、異を唱え続けなければならない。著者がいみじくも引用したように、「地獄への道は善意で敷きつめられている」のだから。
◯自前の新たなデジタル農地の創出へ
現在のデジタル農地は回復できないのかもしれない。しかし、別のレイヤーを創りだして、別の自前の農地を生みだして楽しむことができるかもしれない。
あるいは、いかにも列島的なアプリを創出して、欧米的「究極の自由」論の「逆立ち」を暴露できるかもしれない。
列島の若い才能が、実現してくれる可能性に賭けたい。
むしろ、そのほうにこそ、列島のこれから進むべき道があるのではないか。
そもそも、農地を占有されようが、その下には、日本列島固有の文化的OSが、いまもなお、しっかり生き残っている(そこに光を当てるのが、人生残り少ない私の課題でもある)。
最後に、改めて、この本のキャッチフレーズ、「テクノ・リバタリアンは世界を変える唯一の思想」なのか、という問いについて。
たしかに、「世界」の様相を、少なくとも一部は「大きく変える」だろう。だが、この変化が「絶対」ではまったくないし、また「唯一」でもないはずだ。