九鬼周造の「いき」とユーミンと吉本隆明(上)
【雑記帳】
~『「いき」の構造』 「埠頭を渡る風」 『共同幻想論』~
○翻訳しにくい言葉「いき」
欧米に該当する語がみつからない日本語のひとつに、「いき」(粋)がある。
この言葉を深く掘りさげたのが、『「いき」の構造』だ。哲学者の九鬼周造(1888~1941年)が、1世紀近く前の1930(昭和5)年に上梓した。
九鬼は、江戸・辰巳で遊び、ヨーロッパ留学から戻ったあと、京都帝国大学に哲学科教授として赴任。祇園に入り浸り、早朝の講義は祇園から人力車で通ったという逸話まで残し、のちに祇園芸妓と暮らすようになった。
そんな彼が、「いき」という概念を通じて、西欧と日本列島の文化の違いを示そうとした。
ドイツに留学中、彼は哲学者ハイデガーに対し、「いき」の説明を試みた。しかし、ハイデガーはのちに述懐している、「この語が何を言うのか、私には、九鬼との対話では、いつもただ遠くからおぼろげに感じられるだけでした」と(ハイデガー『言葉についての対話』、高田珠樹訳)。
◯「媚態」「意気地」「諦め」
「いき」とは何か。
第一に、異性に対する「媚態」である。第二に、「意気地」。第三に、「諦め」。
要すれば、「媚態」を基調にし、「意気地」と「諦め」で色づけられるもの。九鬼はそう定義する。
では基本となる、異性に対する「媚態」とはなにか。
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。
(『「いき」の構造』)
固い表現だが、「いき」の美学がここに凝縮されている。男女の関係で、相手に近づきながら、しかしぎりぎりのところで、距離の溝を埋めない、微妙な緊張のなかにこそ、「いき」がある。
「完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する」(同書)。両者が合体したら崩れてしまう。最後までは踏みこまない緊張こそ、「色気」、「つやっぽさ」、「なまめかしさ」を生みだす。
この媚態が、「いなせ」や「いさみ」とも称される「意気地」によって鮮やかに染められたのが、「江戸児の気概」となる。「武士は食わねど高楊枝」、「宵越の銭を持たぬ」。意地っ張りは、武士道的精神に裏打ちされている。そう、九鬼はとらえる。
◯「埠頭を渡る風」
私なりに言い換えれば、「いき」とは、男女間の適度な距離を指す。距離が遠ければ成りたたないし、逆に距離が埋められて(合体して)しまえば、「いき」は壊れてしまう。距離感が問われる。
わかりやすい例として、松任谷由実さん作詞・作曲の「埠頭を渡る風」(1978年発表)をとりあげてみよう。もう半世紀近く前に、男女の距離感を巧みに描いた楽曲だ。
曲は、女性の視点から現在進行形の恋ごころを描いている。
凍えるほど寒い夜、晴海埠頭あたりをドライブしている。「あなた」(男)がハンドルを握る。
「今のあなたはひとり傷つ」いている。けれども、私のことを気にして、やさしくしてくれる。でも、「やさしくなんて しなくていいのよ いつも強がる姿 好きだから」。
そして曲は、強く小刻なリズムを背景に、展開部に入る。
白いと息が 闇の中へ消えてゆく
こごえる夜は 私をとなりに乗せて
ゆるいカーブで あなたへたおれたみたら
何もきかずに 横顔で笑って
(「埠頭を渡る風」)
想いを通わせあう「きっかけ」(契機)は、さりげなければならない。だから「ゆるいカーブ」である。
急カーブや直線であってはならない。急カーブでは、「おっとっとっとー」という感じで、「私」(女)は「あなた」に勢いよく倒れることになる。それでは単なる物理的現象にすぎず、彼女の想いは伝わらない。
他方、直線なのに倒れてしまったら、「私」の想いがもろに出すぎて、重すぎて、「あなた」は受けとめきれない。今の「あなた」がそれだけの重さを受けとめきれないことを、「私」は察している。
◯「ゆるいカーブ」
だから、契機となるカーブは、ゆるくなければならない。
「ゆるいカーブ」が、倒れるきっかけをつくる。しかも、倒れないことも可能な微妙なカーブだ。その距離感が「いき」を生む。
そして、「たおれてみたら、何もきかずに 横顔で笑って」。
女は言葉を発しないし、男にも言葉を求めない。言葉は重すぎる。ただ「横顔で笑って」なのだ。なにも、交通安全協会風の「よそ見運転禁止」だから、ではない。視線を合わせるというべたつきも排している。
◯「野暮は揉まれて粋となる」
「埠頭を渡る風」では、女の立場から「いき」が描かれた。九鬼は、「いき」には、「溌剌として武士道の理想が生きている」と書いているが、狭く「男」の独占物ではない。
現に、『「いき」の構造』は、芸伎の美学にも触れている。
「いき」は「諦め」によって垢抜けする。運命を深く受けとめ、執着を抜ける。「野暮は揉まれて粋となる」。
若い芸伎より年増の芸伎にこそ、「いき」を見出せる。「いき」の所有者は、「垢のぬけたる苦労人」でなければならない、と九鬼は断じる。
そして、「いき」の分析は、心的・空間的距離感だけではなく、「流し目」(視線)や意匠デザインなど、さまざまな分野に及ぶが、ここでは省く。
松任谷由実さんには、男女の微妙な距離感(いき)を唄った楽曲があり、それが彼女の魅力のひとつをかたちづくっている。
このように、「いき」の美学は現代にも息づいている。
しかし、九鬼の語る「いき」は、危うさも抱えこんでいる。
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※ なお、「埠頭を渡る風」については、「深海遙」名で著した小生初めての書『ユーミンの吐息』(1989年)で採りあげた。たぶんユーミンを正面から論じた、初の本格評論書だろう。
のちにこの曲は、写真も交えた『探訪松任谷由実の世界』(写真=斎藤郁男、テキスト・編集=深海遙)でも収録した。