宇野常寛 『庭の話』 [書評]

【雑記帳】



◯“まっとうで誠実な書

講談社、2024年12月刊

 庭の話? ガーデニングかな。いや、庭だけではない。SNS、ケアの現場、民藝、銭湯、グルメ、秋葉原事件……。さらに「孤独」や「消費」、「制作」……、さまざまな事象や現場、概念が、全14章で構成される1冊の中に登場する。

 この本で厳しく批判される団塊世代(ベビーブーマー)に、私は属する。おそらく本書を手にする、ほぼ最年長にあたるだろう。そんな小生からみて、本書の思想的立ち姿は、じつに「まっとう」である。2020年代のいまを直視し、少しでも社会と生き方を変えたいと願う思考の、良質な「達成」のひとつと受けとめることができる。

 なぜ、「まっとう」なのだろう。今日私たちが直面している課題と正面から向きあっている。
 架空のユートピア(たとえば、「自由の王国」とか、「革命」、「純粋な贈与」、「手つかずの自然」、「アルカイックな共同体」など)を設けて、その高みから高踏的・冷笑的に社会を批評したり、回帰を主張して、こと足れりとする、左右の学者・知識人にしばしばみられる傾向とは無縁だ。
 逆に、批判を封印して、この消費社会の泳ぎ方を指南して、結局のところ、社会の現状をただ追認・補強して終わる人生論にも陥っていない。
 「社会」と「個」の双方から、私たちが進みたい、進むべき道が提起されている。

 ここでは、思想史的視点に重きを置いて論じてみるが、まずは著者の主張に耳を傾けよう。

なぜ「庭」なのか

◯Web2.0 ソーシャルメディアの現状

 あらゆる場でSNSが大きな影響を及ぼす今日、著者はまず進展する情報技術が牽引してきた昨今の社会を振り返る。
 かつて21世紀初頭、Web2.0が理想として語られた。「インターネットのすべてのユーザーが潜在的に受信者であると同時に発信者になる」(『庭の話』)希望が見える社会。

 ところが、互いの創造性が発揮され、刺激しあう場としては成長せず、「メディアからプラットフォームへ」の変化がもたらしたのは、まったく逆の効果だった」(同前)。
 SNSの「プラットフォームで展開するのはプレイヤー同士の低コストな承認の交換でしかないという現実の可視化だった。……。そして、インターネットが実現したはずの多様性をみずから放棄しようとしている」と。
 私たちは「相互評価のゲームに閉じこめられている」。人々が触れているのは、事物ではなく「人気のハッシュタグ=他のプレイヤーたちの発信の生んだタイムラインの潮流でしかない」。

 ソーシャルメディア社会の実状がよくとらえている。そこでは、現実(リアル)がネット上の「承認」のための道具になり下がるという転倒すら起こっている。たとえば街や旅に出るのは、現場で出会うコトや事物に触れ、これをじっくり味わうことにあるのではなく、SNSにアップして(人間内での)承認や賞賛を得る材料に成り下がる、というように。また、党派主義的な叩きあいと分断で溢れている。

◯プラットフォームの皮肉 ~上位者に奉仕する下位者~

 こうしたプラットフォームの構造を俯瞰すると、プレイヤーはふたつに分けられる、と著者はみる。「今日のグローバルな情報産業や金融業のプレイヤー」のようなごくわずかな「上位の人」と、彼らが支配するプラットフォーム上でゲームプレイに興じる「下位の人」、つまり一般ユーザの両者で構成されている。

 皮肉なことに、「下位のゲームをプレイする人びとが、ゲームをプレイすることそのものを欲望することがプラットフォームの支配力を高め、上位のゲームを活性化させている」。
 世界中のプレイヤー(庶民)がSNS上でプレイしていることが、そのまま、ゲーム構造を強化することに貢献し、ごくごく一部のネットグローバルカンパニーを利して懐を太らせるために働いていることになる。そのとおりだろう。
 アイロニカルな構造のもとでは、私のような一大衆は、GAFAM(Google、Apple、Facebook、Amazon、Microsoft)らが貸し出す領土の小作人(日本のIT法人)下の、さらなる小作人にすぎないことになる。

◯「内破」という姿勢

 では、人びとがプレイする相互評価ゲームが自己目的化し、ゲームのプレイが手段ではなく、目的と化してしまうプラットフォームの現状をまえに、著者はどういう立場をとるのか。
 「現代の資本主義と情報技術の不幸な結婚としてのプラットフォームを内破すること」だという。

 ここで「内破」という言葉が用いられていることに注目する。すでに触れたように、「外部」を設けて、そこに立ったつもりで、この社会、プラットフォームを否定してすまそうとするのではない。そういうやり方は空回りし、批判する主体の自己満足に終わるだけだ。いや、「地獄への道」を用意することすらある。

 たとえばかつて共産主義は、共産社会というユートピアを設け、歴史がそこに向かって段階的に進歩するという「科学的」史観を設けた。今日でも、かたちをかえて、類する史観が棲息する。
 柄谷行人氏は、生産様式ではなく交換様式を軸にした類型と史観をつくり、A、B、C、Dという歴史的段階を設け、「Aの高次元での回復」としての「交換様式D」(純粋贈与)というユートピアを括りだす。しかもそれは、人間が意志して実現するものではなく、「戦争や恐慌」こそが到来の好機になる。人びとはその「到来」を待つよりほかない、とする。ユートピへの信仰の告白である。こうした史観もその一例である。

 あるいは、人間の影響を受けない「手つかずの自然」という観念を措定し、かつて存在したが今は失われてしまった「自然」への回帰を希求する思考も、近代に生まれた。あるいは、「アルカイックな純粋な共同体」への回帰も同じだ。
 これらは、いずれも、理想とする社会・状態をユートピアとして括りだし、それを大義として現実を批判する。それは、自分の“高次”性や、卓越性、清廉性を自慢して終わるだけだ。こうした大義の絶対化はおおむね不幸をもたらす。「地獄への道は善意で敷きつめられている」。

 著者は、そうした姿勢をとらない。観念的な「外部」を設けてそこに逃げこむのではなく、いま・ここに踏みとどまり、内部から変えていく姿勢(内破)を表明している。

 「このゲームを内破するために、私たちはゲリラ的にプラットフォームの支配力の相対的には及ばない『場所』をサイバースペースに、あるいは実空間に構築することが必要なのではないか。それが、私の問題提起だ」。彼はその場所を「庭」の比喩で表現する。そうして、プラットフォーム世界の相対化を図ろうとする。

「庭」とは何か?

 では、著者の提起する「庭」とは何か。
 一般に「庭」は家に属する、私的な空間だ。しかし同時に、公道に接し、半ば公的なものに開かれている。そのように庭は位置している。
 著者は、共同体やコモンズではなく、「庭」という私的な場が公的に開かれている場に可能性を見出し、それをサイバースペースと実空間の両方、つまり「社会」に広げたいとする。

 「庭」であるための条件がいくつか示されている。人間同士だけで閉じるのではなく、人間が人間以外の「事物」とコミュニケーションを取る場であることなど。人間が完全には支配できない、逆に人間が影響を受けざるをえない生成(自然、生態系)を体験する(させられる)場である。つまり、人間と事物・自然が互いに働きかけあう「場」を確保する、広げていくことこそ、イーロン・マスクのプラットフォームに対抗することだという。
 人間どうしの間で閉ざされ絶対化されるプラットフォームを相対化する――その場が「庭」として設定される。

 こうした視点から見出せる「庭」的な実例を、著者は探しだし、紹介している。ケアの場、ガーデニング、銭湯など。そうした場は、人と人との間だけに限定された「承認」と「評価」ゲーム場と化したプラットフォームのように閉じられてはいない。人と人との閉じられた関係からはみ出す場として「庭」がある。

◯「共同体」ではなく、なぜ「庭」なのか

 では、なぜ「共同体」や「コモンズ」ではなく、「庭」なのか。
 人間は共同体(共同性)を生みだす。しかし、共同体(共同性)とは、閉じてしまう傾向を避けがたい。言い換えれば、閉じられるがゆえに共同体である。「自分の価値」を守り「閉じる」ことで、共同性が維持できる。それが弊害をもたらすのではないか。
 だからこそ、むしろ私的な場でありながら、半ば公的に開かれている「庭」が求められる。人間どうしで閉じられたプラットフォームを内破できるのは「庭」ということになる。庭を広げることによって、プラットフォームの世界から少し距離をとるようにする。

 それは、共同体を基礎とする「贈与」か、市場での(等価)「交換」のどちらを選ぶか、という問いにも置き換えられる。
 たとえば、飢えた人間がパンを求めているとき、「人間関係が築かれていれば無償でパンがもらえる『共同体』」(贈与)と、「貨幣をもっていけば、どこの誰でもパンが買える『社会』」(市場での交換)を対比して、著者は後者を支持する。共同体ではなく都市的社会に、希望を見出す。

 私たちは、社会での分断や格差を批判するとき、(左右を問わず)共同体への回帰を主張しがちだが、そうした道に著者は懐疑的だ。共同体とは、つねに生け贄を必要とし、内部と外部に線を引いて成立するものだから。
 「近代社会のアドバンテージ」を著者は大切にする。個の「自由を確保したまま、相互扶助を可能にしている」社会を、近代の到達点として評価する。

「消費」への安易な逃げこみを撃つ


◯人間の「働き」を変えること

 さて、著者は「庭」をつくるだけでは十分ではない、という。「庭」を機能させるには、もうひとつ、条件が必要だ。それは、「庭」を訪れる人間が「働き」(活動)を変えること。本書の後半で、人間が「働く」ことの変革に話題が移り、小生にはまだぼんやりしていた「なぜ庭なのか」への理解が深められることになる。

 「働きかた」、とくに、「株式会社への所属を中心とした私たちの『働きかた』とその仕組を変える」こと。「従来の株式会社をその内部からなかば解体し、再編する」ことを狙う。
 このとき、人々に求められるのは、何も「強い自立」ではない、「弱い自立」だと強調する。
 「弱い自立」を探るために対比されるのが、吉本隆明の「自立」と、これを承け継いだ糸井重里氏の仕事だ。

◯「ほぼ日」批判

 「消費」を用いた「自立」を追求してきた例として、団塊世代の糸井重里氏が主宰する「日刊ほぼイトイ新聞」が採りあげられる。
 著者は、そこに徹底した非政治性と実質的なECサイト化による「モノ」(のちにコト)消費への回帰をみている。氏の「語り口」には、イデオロギーや正義を解毒する作用があり、他方では世界に対する違和感を封じこめる作用がある、と。
 結局のところ、糸井氏の「語り口」はトップダウン型のイデオロギーを解毒するには有効かもしれないが、ボトムアップ型の「空気」を解毒するのに有効ではない。むしろ「空気」の支配を生んでいるのではないか、と。「戦後日本的な大衆」は、「社会ではなく自己をチューニングすることを常に選」んできた、その象徴を糸井氏の言説にみている。

◯「自立プロジェクト」の失敗

 かつて「軍国少年」として天皇に殉ずるつもりだった吉本さんは戦後、共同幻想の相対化・無化に向けて、次元の異なる対幻想、個体幻想に依拠する「自立」を提起した。その「自立プロジェクト」と、これを承け継いだ糸井氏の「ほぼ日」を、著者の宇野さんは「失敗」とする。
 「妻子を守る『ためにこそ』職場では『社畜』になり集団のなかに個を埋没させ、思考停止する戦後中流的な大衆の姿」を、団塊世代にみている。団塊世代批判を通じた、戦後80年の総括でもある。

 このあたりについては、もっと細かい分析が必要だろう。吉本さんの影響を受けた部分が世代全体のどれほどだったのか(糸井氏が世代を代表できるのか)、また、吉本の自立思想と「戦後中流的な大衆の姿」がどれほど重ねられるのか、また、人間が生まれ育ち、働き、結婚し子を生み育て、老いくたばって死んでいく、という自然過程を、他世代と同様に団塊世代も歩んでいるだけではないか、など……。
 団塊世代批判をめぐる論議を深めたい点はいくつかあるが、戦後のざっくりした流れを現役世代がこうとらえていることは、静かに受けとめるほかない。むしろ、若手批評家に直対応するのではなく、私たちの世代の表現者1人ひとりが、論を深め、明らかにするべきだろう(とはいうものの、時間はもうほとんど残されていないけれど……)。

◯「消費論」への傾斜

 むしろ、本書における吉本―糸井ラインへの批判の核心は、次のフレーズにある。
 「吉本も糸井も事物を制作することを中心に考えなかった。しかし人間は事物を『消費』するだけでもなく『制作』する存在でもあるのだ」

 このフレーズは重要だ。人は1日の主要時間を「働く」ことに費やしている。それが現実の社会を構成している。しかし20世紀の終盤、マルクス主義の終焉とともに、「働く」こと(労働)は主要テーマから外されるようになった。消費資本主義の時代の到来である。「消費」が社会の主人公になった。「消費」が社会を牽引し、人びとは「消費」と「消費論」に熱中するようになった。
 
 吉本さん自身、1980年代ごろ高度資本主義時代を迎えると、消費支出のうち、選択消費(嗜好に基づき選べる消費)が、必需消費(生活の基礎に欠かせない消費)の割合を超える段階の到来を、消費社会に突入したととらえた。そこでは、庶民が選択消費を一時的にでも停止すれば、政権を倒すことだってできる。それだけの力を、消費者としての大衆がもつに至った、と。

 吉本さんはさらに「消費」論を突きつめた。1980年代末から1990年代半ばにかけて発表された『ハイ・イメージ論』では、マルクスの生産・消費論への不満を表明したうえで、高度資本主義下の思考実験を究める。「身体を養うことが同時に貨幣の生産だというほど理想の存在が、経済世界のなかでありえようか?」と。つまり、「働かないで消費することで貨幣を殖やせる」という夢のような生活が、「産業の高次化」の究極で実現される(のではないか)――こうした理想を『ハイ・イメージ論』で追究した。

◯吉本隆明の高度資本主義論

 私は、無理に「働くこと」(労働、生産、活動)を神聖化するつもりは毛頭ない。ラクができれば好ましい。また消費(浪費、蕩尽)を一方的にけなすつもりもない。
 しかし社会は、人々が1日の大半を費やす「生産」(労働)によって構成され、「消費」も「生産物」なしには自己実現できない。言い換えれば、「消費」は「生産」に規定されている。
 また、人間が自然(的存在)である限り、食物を摂取するなど、身体を維持するために必要な「生産物」とその「生産者」にいのちを根底的に負っている。

 ちなみに吉本さんは、たとえば、「儲からない農業」からの離脱は文明と歴史にとって不可避とし、農産物がなくなれば、宇宙食のようなものに依存すればよい、とまで言い切った。
 このとき吉本さんは、「生産」(労働)と「消費」を近代的視点の枠内で対比させ、生産(労働)がなくなり(あるいは労働を価値のないものとし)、消費だけの生活をバラ色に染めあげて論じた。
 
 こうして「生産」(労働、働くこと)が軽視され、あるいは蔑視され、「消費」だけが論じられるのは、高度資本主義社会の到来に伴い、洋の東西で広がった現象だ。しかし、ズームアウトしてもっと長い視点からみれば、それは古代ギリシャ以来、根深く蔓延ってきた西欧的思考の反映にほかならない。これについてはあとで触れる。

◯「消費」ではなく「制作」

 話を戻そう。
 吉本-糸井ラインの「消費」への撤退に対し、著者は「制作」という言葉を対置する。
 人びとは1日の主要時間を「働く」ことに費やしている。著者の言葉を使えば、人間はその社会生活のほとんどを働くことで、市場のプレイヤーとして生きている。
 なのに、人は狭い「承認」や「評価」のゲームに溺れ、「『制作』する主体、『労働』する主体であることを忘れてしまっている」。
 「制作」と聞くと、私たちは身構えてしまうが、杞憂だ。彼は自らの「オタク」性を直視し、誰もが大なり小なり経るオタク的な没頭体験の中から、「制作」論を出発させている。

 ところで、本書での「制作」という言葉は、ハンナ・アレントの『人間の条件』でのタームに依っている。
 アレントは、人間が周囲に働きかける力(活動力)を3つに分けている。労働(Labor)、制作(Work、仕事)、行為(Action、翻訳によっては「活動」)である(『人間の条件』)。こうした腑分けは、私からみれば、西欧的思考の典型である。
 「労働」は動物としての人間が生命を維持するための活動(例えば食物づくり)であり、生産物はすぐに消費され消えていく。「労働」は「勇気」のない奴隷が携わるものであり、苦役であり、自然の世界にとらわれている。そこでは人間は「自然と地球の召使いにすぎない」。アレントらしい論だ。
 「労働」に対して、「制作」(仕事)は、モノ、作品として残るものをつくるから、「労働」よりマシだ。しかし、「役立つもの」をつくるという「有用性の世界」(役立ちの世界)にまだにとらわれている。
 彼女からすれば、「正義」や「大義」を四六時中議論する言論としての「行為」(活動)こそ、奴隷(自然の世界)ではなく、人間らしい「英雄的行為」を見出せる。
 自然と地球の召使いにすぎない「労働」は、「制作」(仕事)によってのみ救われる。「制作」(仕事)は、自然や有用性(役立ち)から超越した高潔な「行為」(活動)と言論によってのみ救われる。

◯古来変わらぬ「自由の王国」論

 アレントのこうした3者の序列的発想は、古代ギリシャのプラトンに始まり、デカルト、カント、ヘーゲル、そして末裔のコジェーヴ、ボードリヤールらに至るまで一貫してみられる。動物や自然、そして身体(の活動)を徹底して蔑視する西欧的思考(いわば「自由の王国」論)の一例にほかならない。

 ところが、アレントからみれば最下位にあったはずの「労働」が、産業資本主義の時代を迎えると(マルクス主義によって)最上位に置かれ、「食欲と欲望」の世界(自然に縛られた奴隷的世界)が広がってしまった。彼女は「行為」(活動)と言論だけが、「制作」(仕事)する人(工作人)を救う道だという。自然や必然から逃れることで、“人間らしい”「自由」を獲得できるという、いかにも西欧的思考構造にとらわれている。

 人間は「地球全体の主人」でなければならない――アレントのこうした言葉に象徴される人間中心主義は、20世紀アメリカで「プラグマティズム」(実用主義)を生み出した。その代表者であるウィリアム・ジェームズは「人間が世界に真理を生みつけるのである」と表現した(『プラグマティズム』)。21世紀の今日、アメリカ合衆国はこの流れを強化し、選ばれた人(国)、優れた人(国)が、「世界に真理を生みつける」という使命(傲慢)に燃えている。

◯団塊世代学者の「自由の王国」論

 残念なことに、こうした枠組みは、日本の学者たちの多くによって今日に至るも忠実に奉られている。
 脇道に逸れるが、一例として、団塊世代学者の「自由の相互承認」論に触れておこう。『庭の話』との対比を一層明確にするためだ。

 西洋哲学研究者の竹田青嗣氏は、「自由の相互承認」を「人間的条件」の柱に据える。それによって、「自由かつ公正なルールゲームとしての社会」をかたちづくることができる、と(『人間的自由の条件』)。
 氏は、アレントが「自由な人間的活動空間」と「労働」を対項として立てることを踏襲する。
 「労働=必要」領域は「人間的自由」を縛りつけるものであり、避けたいものとして考えられている。西欧近代的思考を引き継ぐ労働観だ。
 そして、竹田さんは次のように考える。「自由」を保障・拡大するのは、「生産性の向上」である。生産性が上がれば、「労働=必要」の契機が引き下げられ、「暴力」原理が縮減され、公正なルールゲーム社会へと成熟していく。必要性(つまり食うこと、食わねばならないこと)の世界を充たせば、社会は成熟する。そのために生産性をもっと上げなければならない、と。

 さらに氏は、マルクスが『資本論』で「労働時間の短縮」を提起していることに触れ、「ここでマルクスは完全に事態の本質をつかんでいる」と絶賛する(『人間の未来』)。しかし、労働の時短は、日々汗を流して働く誰もが切に願うことであって、ここでマルクスを絶賛して大見得を切るほどのことではない。
 「多くの人々の『労働日の短縮』を可能にし、人々を絶対的な必要としての『労働』から解放する」――こうして奴隷的「労働」から解放されるとき、「はじめて人間社会は、多様な価値のさまざまな『承認ゲーム』を作り出すことができる。このときこそ、人間にとっての『真の自由の王国』が開花する十分条件なのである」(同前)
 「自由の王国」への希求が、ためらいなく述べられている。ちなみに、「必然性の国」から「真の自由の王国」へという構図は、マルクス、ケインズも描いた、典型的な西欧的な思考の限界である。
「自由の王国」論の西欧近代的思考の限界については、当サイトで何度も示してきた。

◯類似する「自由の相互承認ゲーム」とSNS「承認ゲーム」

 竹田氏の論をまとめると、次のようになる。「生産」(労働)と「消費」のあり方を組みかえるのではなく、ひたすら生産(労働)をできるだけ減少させればよい。なぜなら、苦役にすぎない労働は、人間の動物性(食べること・排泄すること等々)の欲求を満足させるだけの奴隷が担うべき行為であり、人間を「自然と地球の召使い」(アレント)にするだけの行為だからだ。
 「生産性の向上」と「時短」によって、奴隷的存在が担うべき「労働」を少なくしていくことで「自由の王国」が実現する――このように、徹底して伝統的な西洋哲学(形而上学)の土俵で、氏は論を展開する。

 「働くこと」の現実を直視し、問題点の改善を模索する(それは結果として「消費」をも変えていくことだ)のではなく、「働き」を蔑視する彼の「自由の相互承認」ゲームは、歪んだものに陥らざるをえない。「生産物」を消費することは享受しておきながら、「生産物」を生み出す労働を蔑視しておいて、のっぺらぼうの市民の「自由の相互承認」を都合よくもちあげる。ちょうど今日、(事物に触れる)「制作」を忘れたプラットフォーム資本主義で演じられるSNSの歪んだ「承認ゲ-ム」と重なるようにすらみえてくる。

「制作」 そして「働き方」の組み換えへ


◯「人間の条件のアップデート

 改めて話を戻す。
 著者の宇野さんは、アレントのタームを用いるものの、彼女の論、つまり西欧的枠組みに縛られてはいない。「人間の条件のアップデート」を試みる。アレントの「労働」(Labor)、「制作」(Work、仕事)、「行為」(Action、活動)の3者の、西欧的に硬直化した序列の組み直しを求める。
 たとえばアレントが蔑視し切り捨てる「労働」の中に「制作」の喜びを見出す、というように。あるいは、「労働」の延長に「行為」(活動)を発生させる、というように。あるいは「制作の行為化」をめざす、というように。
 こうしてアレントの序列的3者構造の組み替えを狙う。

 制作しているとき、人間と事物は純粋に関わりあっている。(共同体からの)承認やら、(市場からの)評価にとらわれず、事物と正面から向きあい、つくる喜びを得る。それは「人間が純粋に事物を通して世界に関与する時間」の到来でもある。著者は、「生産」(労働)と対置される「消費」の領域だけに、人間の活動を狭める愚を犯さない。「生産」と「消費」を二項対立とする(西欧)近代的思考の縛りから自由である。

 そもそも「生産」と「消費」を切り分けて、生産(労働)を蔑視して「消費」のありようのみを論じること自体、じつに異様で貧しい構図である。あえて、生産と消費という対語を使うならば、「生産」は「消費」でもあり、「消費」は「生産」でもある。それを見抜けず、「生産」を無視したり、「消費」にのみ目を奪われる論は不毛である。

◯「庭」と「もののあわれ」

 「庭」の条件について、次のように書かれている。

人間と事物がコミュニケーションを取る場所であること、事物たちの生態系が豊かに存在していること、人間はその場所に関与できるが支配できないこと、事物の側から人間にコミュニケーションが取られること、そしてそのコミュニケーションが人間を不可逆に「変身」させること。私はこれらの条件を備えた場所を「庭」の比喩で表現した。
 (『庭の話』)


 ここで表現される「庭」――それはもうほとんど本居宣長のいう「あわれ」生成の現場と言い換えられる。

 本居宣長を唐突に持ちだせば、人はいぶかしく感じるだろう。あるいは反発するかもしれないが、ご容赦願いたい。
 宣長はこう書いている、「すべて世の中にいきとしいける物はみな情(こころ)ある。情あれば物にふれて必ず思ふ事あり」と(「石上私淑言」)。「いきとしいける物」とは、人を含む自然であり、事物である。自然・事物に触れれば、あるいは働きかければ、逆に必ず情(こころ)を動かされる。自然・事物が変わり、人間も変わる。そこでの情(こころ)の動き、それが「あわれ」という心情を呼び起こす。ちなみに、「あわれ」とは、今日、上から目線で投げかけられる憐憫の意味とは異なる。

 「こころ」が「感(うご)く」とは、人間が事物に働きかけ、同時に、事物が人間に働きかけることである。人間と事物との間で「コミュニケーション」が生まれ、互いに刺激しあい、変化しあう。私の言葉を使えば、そうした「こころの価値交換」を宣長は「あわれ」と呼ぶ。そして、「もののあわれ」を知る人こそ、こころある人、よき人と宣長は考えた。
 そもそも、人間が「生きてある」こと(存在すること)自体、自然・事物への「働きかけ」であり、事物・自然からの「働きかけられ」である。ゆえに、江戸期の町医者安藤昌益は、「はたらき」という言葉に「感」の字を当て、「感(はたら)き」と読ませた。

 「庭」は「あわれ」生成の場としてある。のちに小林秀雄が宣長を受けて、これを「事物と情(ココロ)との緊密な交渉」と呼んだ(『本居宣長』)のも、「庭」でのできごとを指している。

 本居宣長は「漢意(からごころ)」を排した。当時は、儒教が共同的規範を形成し、イデオロギーとして作動していた。ゆえに宣長はイデオロギー(としての漢意)に、「もののあわれ」を対置した。「人間と事物のコミュニケーション」が、イデオロギー(共同的観念)に吸収されたり、封殺されたりすることを避けたかった。

 たしかに本居宣長は、政治的には「皇大御国」(すめらおおみくに)の言説に流れた。また、小林秀雄の『本居宣長』論は、吉本隆明によって「列島にありがちな、論理・原理を軽蔑し、誤謬・迷信・袋小路に陥っている」と断じられ、戦後の貴重な営為を全否定するものとして厳しく論難判された(『悲劇の解読』)。
 しかし、そうした「保守反動」批判によって、「もののあわれ」論が抹殺されるとしたら、これほど不幸なことはない。

 著者としては、宣長の「もののあわれ」論を持ち出されるのは迷惑な話かもしれないが、私のような年寄りが、本書をこのように歴史的に位置づけておくことも無益ではないと思う。

 本居宣長や小林秀雄は、ややもすれば「心持ち」や歌論の方向へ流れすぎた「あわれ」生成の場を、著者は現代社会で「制作する」(つくる、はたらく)場、「庭」として提起しなおした。まっとうである。

◯「である」ことと「する」こと

 「庭」での「制作」(働き)について、別の角度からとらえることもできる。
 本書で引用される「である」ことと「する」ことは、丸山眞男が『日本の思想』で対置した概念である。「である」は共同体における位置や身分を指す。他方、「する」は市民社会での権利の行使を指す。丸山は、日本人が「である」に流され、主体的に社会を変えていく(「する」)ことが不得手だとする。「自由」は「置物」ではない。権利を行使することによってのみ「自由」である。「する」権利を行使しなければならない。戦後民主主義の理念をこう説き、空気に流されない「主体性」の確立を日本人に求めた。

 この概念を借りながら宇野さんは、プラットフォームが、「である」こと(共同体からの「承認」)と、「する」こと(市場からの「評価」)で溢れているが、「である」でも、「する」でもない第三の回路を設けることが必要だという。「『である』ことでも『する』ことでもないかたちで、世界が自己の存在を許容することが実感できる場所」が求められる。それを「庭」と呼んだ。

◯「である」「する」と「生きてある」

 このあたりを、私の存在観に基づく角度から読み解いてみよう。
 「である」(承認)も「する」(評価)も、人間社会の次元、共同体内での人と人との間でのできごとである。今日のプラットフォーム内では、人間どうしが閉じこめられ、承認と評価のゲームで煮詰まっている。
 ところで、日本列島の人々は古来、そうした人間社会のゲーム次元から一段降りたところで、「ある」ということを独特に受けとめる感受性をもち続けてきた。「である」「する」以前に、人間がそもそも「ある」こと(存在していること)、「生きてある」ことに驚き、「ありがたい」と感謝する心情である。

 いのちが「生きてある」こと自体、よくよく考えればとても「難しい」。いのちが生きてあることが難しいにもかかわらず、自然や大地に支えられて、「生きてある」。これを「有り難い」と受けとめる存在観を、列島の人々(庶民)はもち続けてきた。ふだんそんなことは意識しないけれど。その「有り難さ」を「有り難い」と思うことから発生した「ありがとう」の言葉を、今日でも人々は広く使っている(もちろん、こうした存在観は「空気の支配」を生みやすく、そのことには自覚的でなければならないが)。

 こうした受けとめ(存在観)を、たとえば空海、親鸞、道元らは仏教思想として、宣長は「もののあわれ」論として、九鬼周造は「いき」の文化論として表現してきた。
 そこでは、食べることも、生活を維持するための道具(有用性)も、アレントら西欧的思考のように蔑視するのではなく、「ありがたい」ものとして受けとめてきた。
 
 著者が、人間と事物、事物と事物が「コミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している」のは、人間社会の底流に流れるこの存在観と触れあうことで醸成される。
 列島文化の底流に流れている存在観と、著者の「庭での制作」論は響きあっている。

◯雇用契約のもとで「働く」ということ

 人びとの「働き方」に目を向けるなら、当然、企業でのそれが問われる。
 著者は、株式会社への所属を中心とした「働き」方と向きあう。「株式会社への所属を中心とした私たちの『働きかた』とその仕組みを変えるのだ」と。
 架空の外部(ユートピア)へ逃げこむのでもなく、また、人間の活動の一部である「消費」という、いかにも論じやすい領域に逃げこむのでもなく、今日論じるのが面倒だけれども、決して避けて通れない「労働」(働き方)に目を向けるだけでも、著者は誠実である。
 現に、仕組みを変えるための試行事例が本書で示される。紹介される事例(模索)はおそらく紆余曲折を辿るだろう。でも、少なくともその問題と正面から向きあっている。

東京 2024年

 ところで株式会社で働くこと、その前提は雇用契約の締結である。そもそも雇用契約という制度に問題はないのか。
 西欧では古代ギリシャ・ローマ時代から、奴隷制が厳然として存在した。奴隷は存在のすべてを主人の支配下に置かれ、働く。だが、近代に入り奴隷は解放された。今日、雇用制度は自由な主体(雇用する者と雇用される者)どうしの「契約関係」としてある。

 ではこのとき、雇用される側(労働者)の「人格」は、奴隷と違って尊重されているのだろうか。近代初期のカントやヘーゲルは、このテーマと一応向きあった。結果、時間を区切って働く(つまり、奴隷のように全時間支配されるのではない)し、全人格を売るのでもない、人格と労働力は切り分けられるのだから、雇用される者の人格は確保される、とした。
 しかし、その論理の組み立ては必ずしも納得できるものではない。
  ※詳細は、拙著『労働止揚論 ~「労働」から「感(はたら)く」へ~』参照。

 そして今日に至るまで、雇用契約が抱える問題が、本質的・哲学的問題に論じられているとは言いがたい。現代の哲学者マルクス・ガブリエル氏も、資本主義における「倫理」を問いながら、雇用制度を自由な関係の契約と流すだけで、まったく問題視していない(『倫理資本主義の時代』)。

◯「人間」と「労働力」の切り分け

 「雇用契約」関係のあり方を疑ったのは、カール・マルクスや、20世紀経済学者の宇野弘蔵など、ごく一部だ。
 マルクスや宇野弘蔵は、雇用契約における賃労働を、「労働力の商品化」ととらえ、これに根底的な疑義を呈した。「商品」として売買されるのは「労働力」であって、「人間」が売買される(奴隷制)ではない、とする論に異を唱えた。じつは、人間自身が商品化されているのではないか、と。

 いったい、ひとりの人間の中で、人間総体と「労働力」はどのように切り分けられるのか。
 たしかに今日、人間(労働者)は「労働力」を提供して(働いて)、対価として「賃金」を得る。人間と「労働力」は分けられている。しかし、分離はそう容易ではない。人は企業(共同体)と雇用契約を結べば、当然その共同規範に従う。従わざるをえない。カント、ヘーゲルのいうように、奴隷制とは異なり「人格の自由」は侵されていないとは形式上言えても、実際には共同体の規範・イデオロキーに縛られざるをえない。埋没せざるをえない。いや、逆にそれによって生産性も向上する。著者が団塊世代に、サラリーマンとして共同体に埋没する姿を見たのも、そうした事情にほかならない。

 人格と身体という切り分けは、肉体労働ならそう難しくはない。しかし、精神的作業を伴う労働、さらに今日、圧倒的に増大するサービス産業の労働のもとでは、切り分けは容易ではない。
 
 さらに、身体とこころを切り分けるのが得意ではない日本列島人にとって(これは負性であるが、逆に特性ともいえる)、切り分けはとても困難だ。それゆえに、一方では「過労死」のような事態をもたらすし、「社畜」と呼ばれるような状態をもたらす(ちなみに、私は佐高信氏が用い始めた「社畜」という侮蔑呼称を、超越的に使うことはできない。なぜなら、私自身もきっとそのように現象したし、また、株式会社で働けばそうした傾向を免れることは難しいし、もっといえば、佐高さんのような「自由人」「知識人」も「社畜」とお付きあいしながらしか生きられないからだ。市民社会は相互依存の関係にあることを自覚しなければ、思想は深められない)。

「働く」現場からの変革

 労働現場のこうした実情を無視し、できるだけ「労働」をないものとして扱い、ひたすら消費社会での「自由の相互承認」ゲーム(竹田青嗣『人間的自由の条件』)を謳いあげるだけでは、誠実とはとても言えないし、力をもたない。

 こうした中、本書は株式会社での「働きかた」が生まざるをえない課題と向きあう。「消費」領域での安易な批評に逃れるのではなく、「制作」(生産、労働)の領域の問題点と向きあう。「労働(Labor)という回路からのアプローチ」を重視している。
 「従来の株式会社をその内部からなかば解体し、再編する」――そういう試みの事例を、著者は採り、模索している。

 さらに、並行して、雇用契約制度(株式会社への帰属)に縛られるのではなく、株式会社の疑似解体、「個人商店」「小商い的自立」(いわばフリーランス的生き方)をひとつのあり方として提案する。
 とはいうものの、こうした「弱い自立」を実現するためには、「再配分」や「暇」といった条件も欠かせない。セーフティネットの整備をも、著者は丁寧に指摘している。

◯党派性にとらわれない多彩な才能

 むろん、本書で異和を覚えるところもある。たとえば、イギリス人のデイヴィッド・グッドハートの、「Anywhereな人々」(「「どこでも」生きていくことができる人びと」)と、Somewhereな人びと(「どこかで」しか生きられない人びと)という西欧的なものの見方による二分法の踏襲、吉本さんの概念の使い方等に関して。
 ただ、それらは枝葉に属する。敗戦から80年が経つ今日、本書の幹は希望をもてる良質な「達成」というべきだろう。

 どうやら著者はじつに幅広い活動を展開しているようだ。取材・執筆者、編集者、版元(出版社)、さらに講義する人、コーディネイター、プロデューサー等……。多彩な才能には驚かされる。
 なにより、狭い党派性にとらわれない。私たちが陥りがちな党派性(共同性)をどう打ち破るかに、つねに腐心している。ゆえに、風当たりが強いこともあるだろうと推測する。
 本書の思想的立ち姿を支持したい。

(京都にて)

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