ラジオ体操の復活

高台寺

【老いについて(1)】

◯スイミングプールにて

 時間のとれる日は毎夕、ジムで泳いでいる。
 その時間帯、子どもたちのスイミングスクールと重なる。参加する少年少女たちが増え、一般・シニアが泳げるコースは年々、圧迫され、端っこに追いやられている。
 まあ、元気な子どもたちのためには、やむをえないことと、渋々受容している。

 彼らは、隣のコースで波しぶきを高く上げながら泳ぐ。
 選手育成のコースでは、スピードが速い。何より、腕と足の回転が速い。わたしが1ストロークする間に、4、5倍は回転させているのではないか。
 まあ、中学生以上の子どもに負けるのはしかたがないと受けとめつつも、小学校低学年の子どもに負けるのは、心穏やかではない。ついつい水を掻く腕に力が入るものだ。

 しかし、そんな意気ごみもすでに過去のものとなってしまった。もう10年以上前からは、スピードを競うことを諦めている。小学1、2年生の子にもお手上げだ。
 距離も、以前の1キロから半減している。

◯軽んじていたラジオ体操が……

 「老い」を味わわざるをえない体験は、いたるところに転がっている。
 あえてひとつだけ、さらに挙げておけば、ラジオ体操。
 小学生低学年くらいまでは、なじみの体操だった。学校だけでなく、夏休みになれば、早朝、カードを首から掛けて近所の会場に出向いて体操して、カードに判を押してもらっていた。

 しかし、中学、高校時代にスポーツ系の部活を始めてからは、激しいトレーニングが当たり前になる。ランニング、ウサギ跳び、腕立て伏せ、腹筋……、もうメチャクチャに取り組んだ。
 以来、30代くらいまでは、NHKのラジオ体操など、じつに柔な、運動ともいえない代物だと侮蔑し、遠ざけていた。

 ところが、50代、60代になると、バカにできなくなってきた。
 フリーになって、運動不足解消のため、再開してみた。
 あの軽快な4拍子の(かつては軽んじていた)オープニング音楽が始まると、パソコン前の椅子から立ち上がり、準備を始め、いつも体操に励んでいる。
 若い頃とはうって変わり、決して軽んじられない運動になってきた。10分間しっかりやりきれば、息が荒くなるし、汗もかく。いい運動だ。
 昔は想像できなかった事態である。

◯「老い」と「衰え」

 「老い」というより、「衰え」を感じたはじめは、30代か40代のころだったろうか。
 朝起きて、顔にできた皺の回復が遅くなったように感じられたのだ。
 うつ伏せに寝ていて、枕の皺だかなにかの跡が、頬に刻印される。でもそれは、若い頃はほとんど即座に消えていた。
 そのはずだった。しかし、その回復に時間がかかるな、と感じられるようになってきた。肌の弾性が弱くなってきたからだろう。

 では、「衰え」と「老い」は、等式で結べるものなのだろうか。結ぶべきものなのだろうか。

◯「死」は体験できない

 つい最近、作家の佐藤優さんがある書評で、人は「80代後半となると人生の終わりをかなり意識するようになると思う」と書いていた(12/18、毎日新聞)が、その指摘はいささか的を外しているように思う(彼が前立腺がんを公表する直前の原稿ではあったが)。
 「人生の終わり」、「死」は、50代、60代あたりからそれなりに意識するだろうし、わたしもそうだ。誰でも、ひとたび病でも患えば、あるいは病を疑えば、「かなり意識」するはずだ。
 いや、10代、20代であっても、もっと観念的な形ではあるが、死を意識している。
 ただ、「死」というもののリアリティの感じ方は、年代によってずいぶん異なる。

 「死」は体験できない。体験したときには、もはや有機体ではない。体験(の意識化)はできない。それは、ドイツの哲学者・ハイデガー、あるいはフランスの哲学者・ボーヴォワールらを挙げるまでもなく、さまざまな人々が指摘することだ。
 だから、「死」を体験する寸前のあたり(臨死体験)がしきりに研究されたりする。立花隆や吉本隆明が、「臨死体験」にこだわったのも、そうした事情からだろう。
 ただ、それは、「死に臨む」事態の体験であって、「死」そのものではない。

◯デジタル・テクノロジーが与える影響は?

 「老い」が、死を身近にさせることは疑いを入れない。
 しかし、「死」を意識する、とよく言われるものの、それは、「死」そのものではなく、じつは「死」によって訪れる「不在」を意識しているだけではないだろうか。

 また、「老い」と「衰え」は、必ずしも等式で結べない。両者は別ものである。

 さらに「老い」とは、経験の「蓄積」をも意味する。必ずしも負だけではない。豊かにもなりうる。二十歳の人間と、70歳、80歳の人間では、人生の蓄積が圧倒的に違う。

 「衰え」も、「老い」も、「死」も、自然としての人間に訪れる単なる「自然過程」にすぎない。であるがゆえに、誰をも差別なく襲う。
 ただ、私たちは、「衰え」、「老い」、そして「死」、「不在」をできるだけていねいに切り分けて分析してみることが大切ではないか。

 さらにまた、昨今のデジタルテクノロジーの進展は、「老い」、「衰え」のありようにどのような影響を与えるのだろうか。「身体の拡張」とか、「介護でのテクノロジーによる補助」等々。

◯懸念されるコロナ・フレイル

 また、コロナ禍が続く中で、心配されているのが、コロナ・フレイル。
 フレイルとは、高齢者の健康問題のテーマとして、しばらく前からわが国でも使われてきた言葉だ。加齢に伴い、体力や活力が衰えること。
 それが、コロナ禍による外出の自粛、運動不足で、加速されることが懸念されている。実際、私にしても、運動不足が避けられない。スイミングはしていても、街や人ごみの中を急ぎ足で歩く機会が失われていることが影響している。
 おそらく、コロナ禍がもたらす影響は、数年後にじわっと露わに結果として現れてくるのではないか、高齢者の「衰え」の加速的結果として。

 こうしたことを、これからあれこれ考えてみたい。

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