老人と海

【老いについて(2)】

◯誕生する前の記憶

 “老人と海”  ヘミングウェイが描いた、自然と闘う老漁夫の物語、ではない。

 三島由紀夫は、自分がこの世に生まれ落ちたときの光景を見た、と小説に書いている。産湯に使われた盥(たらい)の淵に、光が差していたのをたしかに記憶している、というものだ。
 彼の場合は出生時の話だ。
 だが私は、それより早い段階、つまり生まれる前の状況を記憶している。なにを妄想を、と笑われそうだが……、母の胎内にあったときの記憶である。

◯海に浮かぶ

 幼いときから、毎年夏を迎えれば、東海道線と、東海バスか東海汽船を乗り継いで西伊豆に出かけ、海で泳ぐ。これが夏の、私にとっては贅沢な体験だった。
 社会人になってからは、行き先が西伊豆から湘南あたりの近場に変わったけれど、海で泳ぐ習慣は変わらない。

 30代になってからだろうか、泳ぐだけではなく、海で仰向けになり、浮かぶことを好むようになった。
 浜辺から泳いで少しばかり沖に出て、仰向けになって浮かぶ。
 小波で、体が木の葉のように揺れるままにまかせる。
 仰向けになっていれば、視界に入るのは、深い青空だけだ。そこに、真っ白な雲がぽかりと浮かぶ。ときには、入道雲が陸地らしき方向からもくもくと広がり、空を覆い始めることもある。

 しばらく浮いていると、潮でかなり流される。遠くに流されたときは、仰向けのまま、両手で水を掻いて位置を戻す。

◯胎内回帰願望

 なぜ、そんなことをするのか。
 海に浮かび、潮に包まれた体が波まかせで揺れるのが、じつに心地よい。
 さらに、海水が耳に入りこむ。耳の中でひたひたとざわめく海水の音が、なぜか懐かしく感じられる。既視感ならぬ既聴感を覚えるのだ。
 そう、羊水に包まれた胎内で聞いていた、あの音だ。

 大笑いされるかもしれないが、決して根拠のない話ではない。
 聴覚は母胎内にいるときから機能している、といわれる。
 また、海水の成分は羊水と似ている(生命形態学者の三木成夫さんが話していた)。

 からだを海水に浸して浮き、耳元に響く水の音を聞くのは、海水と同じ成分の羊水に包まれ、聴覚を働かせているシーンと重なる。
 しかも、耳にざわめく海水は、地球全体に広がる深い海のうごめきと直接つながっている。それは、母の胎内で羊水を通じて、宇宙とつながり、響きあうのと同じだ。
 プールに浮かんでもけっして得られない、奥深い響きに満たされる。

 海のざわめきに重なるように、陸地の生活音もぼんやり届いてくる。砂浜の海の家が流す歌謡曲であったり、クルマのエンジン音など、俗界のざわめきが、ぼんやりと聞こえてくる。
 母胎の中にあっても、このように母の外部の生活音をぼんやり聞いていた(にちがいない)。それを追体験しているのだ。

 こうして、海水(羊水)に包まれて浮かぶのが、至福の時間となり、夏になれば泳ぐだけでなく、必ず浮くようになった。
 澁澤龍彦だったか、野坂昭如だったか、「胎内回帰願望」を語っていたが、まさに、胎内に回帰して浸る時間である。胎児は胎内で全的に守られている。「静かなエクスタシー」といってよい。

 「胎内回帰」の体験は、私が「老人」の範疇に入り始めた近年まで続いた。

◯「断念」と「喪失」 そして「生の充溢感」

 ところが、ここしばらく、夏の海へ出かけることがなくなってしまった。
 コロナ禍で行動を制限された数年間も大きい。
 今では、海辺で真夏の強烈な日差しを浴びるだけの勇気が失われてしまった。目も肌も、痛めつけられてしまうように感じる。
 よって、残念ながら、私の「老人と海」の物語は、終わりを迎えつつある。

 「断念」は、ほかにもいろいろある。
 たとえば、かつては旅に出れば、四季を問わず必ず、帰りの車中で冷えたビールで喉を潤した。それが愉しみでもあった。しかし、いまでは、ペットボトルのお茶、という案配だ。
 プールで泳ぐ距離も、徐々に減っている。
 そんな事象はいくらでも挙げられる。

 これに、「喪失」が加わる。
 深く語りあえる友が次第に消えていく。

 歳を重ねるとは、「断念」と「喪失」の積み重ねだ。
 いいかえれば、愉しみの数が少なくなってくる。愉しみの選択肢が減ってくる。
 それも「老い」というものなのだろう、と受けとめる。

 ただ、愉しみの数は減り、愉しみの強度は減少するものの、生の味わいの濃度が薄くなるわけではない。生の充溢感が失われるわけではない。

 うまく老いる、というのはなかなか難しそうだ。それでも、不機嫌な表情はできるかぎり見せない。それが、「老いた人」の務めのひとつだろう。

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